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 駈はわずかに首を後ろに向け、ガラス越しに校舎内に消えていく輝流の背中を見つめると、すっと目を細めて指を唇に押し当てた。 (そろそろ……か)  先程まで輝流が座っていた場所にそっと手を置き、細く息を吐き出した。  本人はまだ気付いてはいない。しかし、いつ体の変化が起こってもおかしくない頃ではある。  何気ない日常が“日常”でなくなる時が近づいている。  人間の嗅覚では絶対に分からないほどの微香が車内に漂っている。  運転席と後部座席の間はスモークガラスで仕切られており、運転手に気付かれる事はない。それに、駈自身の香水の匂いではないことは一目瞭然だった。  甘い花の香り――それを発するのは特定された者のみ。  駈はその匂いに過剰反応し始めている自身の体を抑えつつ、唇を噛み、ただ前だけを見つめていた。  *****  学校敷地内の別棟にある図書館の閲覧スペースで、課題として出されていたレポートの資料を探していた輝流が体の異変に気が付いたのは、もう陽が沈みかけた頃だった。  天井まで届く大きなガラス張りの窓に掛けられたブラインドの細い隙間から差し込む光が赤から紫に変わり、夜の訪れを告げる頃、急に心臓が締め付けられるような痛みと、息苦しさ、そして体の火照りを感じた。  急に熱でも出たのかと思い額に手を当ててみるが、そう熱さは感じられない。  しばらく椅子に腰かけたままじっとしていたが、妙な胸騒ぎと同時に、次第に体が重く感じられるようになって来た。  他人に心配をかける事を何よりも嫌う性格の輝流は、そっと閲覧スペースを抜け出すと、人目を避けるように図書館を出た。  肩が上下するほど荒い息を繰り返しながら、ふらつく足取りで廊下を進んだ。  別棟から本校舎へと繋がった渡り廊下は、幸い、遅い時間ともあり誰かとすれ違う事はなかった。  スマートフォンを握る手がじっとりと汗ばんでいる。たとえ風邪をひいたとしても、これほど体調が悪くなったことなど今まで一度もなかった。それ故に不安が輝流を襲った。  階下へと向かう階段の降り口で足を止め、壁にぐったりと凭れるようにして、先程から表示させていたアドレスへと発信した。
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