恋は忘れた頃に

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まさか、あんなことになるとは思わなかった。だけど、あの件で私はこうやって一人で仕事をもらって一人で仕事をしている。 そのほうが都合がよかったのかもしれない。 もう逃げ道はない。私には仕事があればそれでいいのだから。 FAXがガタガタと動き出し、印刷され排出された音で我にかえる。 しぶしぶ立ちあがり、FAX用紙を取り、席に戻る。ある会社からのデザイン案の追加の件だった。 ぼんやりと昔のことを思いふけり、仕事に集中できていない自分にいら立つ。 気合いを入れ直し、原稿を見ながらパソコン操作に集中した。 今思えば、逃げたのかもしれない。いろんなことから。 周りはわたしが会社を辞めることに関してはとめなかった。 自分の代わりはいくらでもいる。そんなあたりまえのことは辞めていった人間を送るときに嫌というほど、その苦みを味わった。 あんなに頑張って仕事をこなして辞めても、すぐに新人が入って何事もなかったかのように会社はまわっている。 いちいち感傷に浸っていたら仕事なんかできるわけがない。 それでも味方でいてくれた裕介には感謝していたのだが。 辞める前に取引先の営業の人へ挨拶をしたとき、こう言われた。 「キミなら一人でできるんじゃない?」 「一人って?」 「仕事。安く請けてくれるなら仕事紹介するけど」 「え、本当ですか!」 カバンの中にある求人雑誌でも透視されたのだろうか。きっと仕事が欲しいと顔に書いてあったんじゃないか、と今は思う。 退職の日、裕介が一番かなしい顔をしてくれた。 「社を離れるのはもったいない人材だった」 ねぎらいの言葉を贈られ、私は会社から旅立った。 その後は起業の本や商工会議所のセミナーに参加するようになった。 開業にむけて、いろんな準備を経て、まずは自宅で仕事をするようになった。 仕事を請け、納期まで仕上げ、取引先と打ち合わせをし、作り上げていく。 データをCDRに焼いたり、データを送信したあと、OKをもらう、あの瞬間が最高だ。 やっぱり仕事は裏切らない。 裏切るのは、恋愛なのかもしれない。 またくだらない妄想をふくらませて仕事が進まずに頭をかかえていると、部屋のドアをノックする音がした。
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