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傘を忘れて雨宿りでもしているのかな……と思った。
しかし、職員室に行けば置き傘が借りられることを思い出して、誰かと待ち合わせているのかも……と思い直した。
何か特別に話しかける必要もないだろう。
私はそのまま通り過ぎようとした。
その時、「村田さん」と声をかけられた。
あまり耳にしたことはなかったけれど、少し高めのその声は松尾くんのものだった。
思いがけない出来事に私があたふたしていると、松尾くんは困ったように微笑んで、
「ごめんね、傘を忘れてしまったんだけど……その、駅まで入れていってもらえないかな?」
と申し出た。
私には断る理由もなく、
「あ、はい、どうぞ!」
と慌てて返し、彼は「ありがとう」と言いながら自然に私の傘を手に取った。
学校から最寄りの駅までは五分もかからない。
けれど今の私にはその五分が永遠のように思われた。
黙っているのも気まずいが、かと言って話題が見つかるわけでもない。
彼が差してくれている傘の下で、私は少し俯き加減に歩くしかなかった。
傘に当たった雨粒が弾ける音、通り過ぎる車が跳ねていく水の音、少し冷たい空気の中で、静かな音だけが響いていた。
少し道が開け、駅が見えてくる頃、不意に松尾くんが言葉を漏らした。
「村田さんは……」
「え?」
激しく鳴らされたトラックのクラクションに掻き消され、彼の声が届かない。
何か聞かれたような気がするが、何を聞かれたのか。
「……ごめんね、駅までありがとう」
彼が言い直す前に駅に着いてしまった。
丁寧に畳まれて返された傘を受け取ると、松尾くんは
「じゃあ……また明日」
と少し照れくさそうにはにかんで、改札へと吸い込まれていった。
私はと言えば、聞き取れなかった質問と初めて見た彼の笑顔が頭の中を埋めてしまい、気の利いた言葉の一つも出てこなかった。
だが、思い出した。彼はたしか陸上部ではなかったか。そこにこの雨─。
私は自分に都合のいい想像にクスリと笑うと、彼と同じように改札へと吸い込まれていった。
電車に乗っている間に雨は上がるだろうか。それとも。
明日は彼におはようと声をかけてみよう、と心の中でそっと呟いた。
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