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彼女からタバコの臭いがしたのは、一瞬だった。ほんの一瞬。 次の瞬間には忘れてしまうぐらい、かすかな香り。 出かけてきた飲食店の近くに、喫煙者が居たのだとか、 電車で隣に座ったおじさんが、運悪く臭かったとか。 そういうレベルの、かすかな香り。 俺は部屋に戻ってベッドに座り、 一度は本を開いたものの、やっぱり本を閉じて、 ベッドの横になると彼女のことに思いをはせた。 俺も彼女も社会人であるが、それぞれ別の会社で働いている。 俺は土日出勤が多く、平日の数日が休みだが、 彼女は平日が出勤日で、土日が休みだ。 故に、二人そろって休日という機会はなかなかなく、 俺たちは夜にそれぞれ帰ってきて、夕食を食べて話をする、というのが常日頃のことだった。 彼女は近くの会社の事務をやっていて、 詳しくは知らないけれども、パソコンを使って仕事をしたり、いろんな書類を整理したり、 いわゆるデスクワークという仕事らしい。 俺と彼女の大きな違いの一つに、「本を読むか、読まないか」という違いがある。 もちろん、「テレビを見るかみないか」とか「トマトが好きか嫌いか」とか「体を洗うとき、どこから洗うか」なんて差異もあるが、 この本を読むか読まないか、というのは、なんだか大きく俺と彼女の間に横たわっている気がした。 ちょうどその時は、俺が歴史の本を読んでいたときだった。 本の中に、柿が出てきた。 ある死刑囚は、死刑の前日に下記を進められた際、「柿は痰の毒だから」と断ったという。 明日死ぬ命だというのに。 と、ちょうどその本を読んだ日、彼女が珍しく柿を買ってきてくれて、剥いてくれた事がある。 思わず、俺は柿の話を彼女にしたくなった。が、俺は結局、しなかった。 彼女と、俺の間には大きなものが横たわっていたからだ。 そういえば、アメリカのジョークにも似たような話があった気がする。 死刑の前日に、タバコを断る死刑囚の話が。 俺はベッドの上で考え事をして、ふと考えた。 柿と、タバコ。 タバコのにおい。 そう、確かに先ほどの彼女からはタバコのにおいがした。
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