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全身雨に打たれた男が俺の方に手を伸ばしてくる。あれ? どこかで…と思った瞬間、忘れられない言葉を聞かされた。
「傘を、下さい…」
十年近く昔の記憶が甦る。それと同時に、こんなに近くにいるのに、雨のせいでよく見えなかった男の顔が鮮明になった。
そこに、十年近く前に行方不明になった友達がいた。だが不思議なことに、そいつの姿はあの当時そのものだ。
「傘を、下さい…」
そう訴えてくる声も記憶に残っている友達の声だ。
どうしてあいつが当時の姿でここにいる? そして、あの日の男と同じことを訴えている?
脳内でぐるぐると色んな考えが暴れる。そんな意識とは裏腹に、口が勝手に友達の名前をつぶやいていた。
目の前の相手が強張るのがはっきりと判った。さっきまで、見合っているのにどこかずれていた視線がきちんと重なる。その途端、相手の哀れっぽい訴えは叫びに変わった。
「傘…傘だ! 傘をくれ! 傘を、よこせ!」
般若の形相になった相手が迫ってくる、もうそこには懐かしい友達の面影はない。
幸いなことに、鬼気迫る迫力なのに相手の動きは遅く、俺はまともに追って来れない相手に背を向けて全速力で駆け出した。その背中にいつまでも、
「傘をくれぇぇぇぇぇぇ!!!!!」
恨みがましい絶叫がまとわりついてきた。
* * *
あれからさらに数年が経ったが、この話は誰にも…行方不明になった友達の両親にも言うことなく、俺の胸一つに留め続けている。
学生時代に傘をねだった男が何者だったのか。あの時俺に傘をねだってきた相手は、本当に消えた友達だったのか。だとしたら、傘の受け渡しにどういう意味があるのか。
憶測はいくらでもできるけれど、真相は判らないし、知らぬままでいいと思っている。
…さっき見たテレビの天気予報では、明日は雨だと言っていた。
傘を用意しておかなくちゃな。誰に乞われても渡す気になれない、愛着たっぷりの気に入りの傘を。
傘をくれ…完
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