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「泣くんじゃない! 泣いたら、味が変わるわよ」
カナコさんの一声でようやく店の中に意識が戻ってきた。
僕はふうと息をついて、なんだかきらきらと滲んだ視界の中でカナコさんを見つめ返した。
「なんか僕、一瞬昇天していました」
「あたしも最初は三途の川が見えたわ……」
真面目な顔で頷いて、カナコさんがフォークの上のクレープを大口を開けて迎え入れた。僕もはっと気づいてナイフをバターの上で踊らせる。上質なバターが、熱にとろけてしまう前にもう一口いかなくては。口の中でまだ溶けきらないバターの温度とトラ模様に焦げ目のついたクレープの熱のその温度差が、たまらなく心地いいから。
「バターは有塩なんですね」
「この塩気と、砂糖の甘さのコントラストが突き抜けて完璧なのよね」
言いながら、カナコさんの皿のクレープはもう半分なくなっている。
しかしこの絶妙なバランス、一体何をどうしたらこうなるというのか。
洋菓子なんてもう、大半がバターと砂糖と卵と小麦粉の塊なのに、それだけを使いこなしてこんなものが作れるなら、ケーキなんて何種類もある意味がなくなるじゃないか。
口内でどろりと溶けたバターが舌先に絡みついて、僕の脳にじゅくじゅくと侵入していく。砂糖とバターで脳が溺れる。
僕が人間でいる以上、どうしたってこんなもの、うまいと思ってしまうに決まっている。皿の上で弄ばれているのはバターでも小麦粉でもなく僕自身だ。
いつもより少しだけ紅潮してうっとりと微笑むカナコさんの後ろに、大きくくり抜かれた壁から厨房が見える。店に入った時にはただのおっさんにしか見えなかった店主に今は、金色の後光が差して見えた。
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