オ~マイガ~

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”姪御に言わせると、わたしは神様らしい。もちろん揶揄なのは間違いないが、日本における”神様”とは、その程度の身近な存在、自分より少し上位概念の存在から適用されるのである”  美恵子の去った後で丈は、またキーボードに向かい合う。 ”しかし、そこからはじまって、さらに段階的に古に世界の源流にさかのぼっていけば、古事記など日本神話に見られるということは、おそらく、世界の神話体系もそうなっているのだろうと類推することができる。  瞑想を極めると、自我がそのまま無限に拡張し、宇宙と同等の大きさ、あるいは宇宙そのものになる”神我一如””梵我一如”の境地に至るという。その感覚が、彼をしてその巨大な宇宙神を意識させたのであろう。  仏教をして、無神教であると考える向きもあるが、わたしは、そうは考えない。ゴータマ王子が苦行、そして瞑想の末にその悟りを得たとき、梵我一如を感じたといわれる。世界を、この世界を神そのものと考えれば、彼は、まさに神といわれるものを感じたのは間違いない。ならば、すべての宗教に神は存在することになる。  例外は、中国の儒教ということになるだろう。あれは、孔子が理想とする社会の礼儀作法のノウハウ集であるからだ。しかし、彼とても先祖崇拝を否定しているわけでは無く、当時は実在とされた古代皇帝を崇拝し政治を踏襲する態度は、むしろユダヤ教の預言者を崇拝するのに相似するのではないだろうか。そして、むろんその教えを唱えた孔子もまた崇敬の対象となって現在に至っている。だからこそ、人の原初的感覚に訴える。  そう、そもそも的に、世界に”神”というしかない大いなる上位存在の臨在を感じるのが、人の生物としての本能的世界理解の仕方というものなのでは無いだろうか。神が存在するか否かはわからないが、神が存在すると感じるように人間という生き物ができているというのは、十分に在ることなのではないだろうか。そうだ、人間にとって、宇宙も世界もまた、神なのである”  丈は、いつものように時間を忘れて執筆を続ける。その間、美恵子が持ってきたパチンコの景品の菓子と飲料が彼の夕飯代わりになったことは言うまでも無い。
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