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本の世界に没頭していて、隣の席に人が座ったことも最初気付かなかった。何か気配を感じ、活字から目を逸らして横を見ると、そこには成田くんがいた。
「こんにちは」
成田くんは怪しく微笑んで言った。
「こんにちは」
妙な胸騒ぎがして私はうまく笑えなかった。
「あと10分くらいしかないんだ。時間がないんだ。今思いついたんだけど、アルバイトしない?」
その割に全然緊迫感がない言い方だった。
「私が?」
私はわけが分からなかった。
「10万出す。日本円だ。黙ってここに座っていてくれたらそれでいいんだ。今から人が来る。女性だ。彼女は凄く怒ってる。そしてとても嫉妬深い。僕一人だとちょっと手強い」
説明の途中で一人の女性が凄い勢いでやって来て、成田くんの正面に座ると間髪入れずに中国語で何やら会話を始めた。早いのと、多分内陸のなまりもあるらしく、私には全然聞き取れなかったが、成田くんは普通に会話をしていた。綺麗な若い女性だった。スレンダーで黒いストレートの髪が胸のあたりまであった。時々彼女が私をカッと睨みつけるのが多少気にはなったが、仕事だと思って割り切ってただ黙って座っていた。
20分ほど経っただろうか。彼女が急に黙り、成田くんも黙り、そして彼女が突然泣きながら立ち上がり、目の前にあったコップの水を私にぶち撒いて店を出て行った。一瞬のことで何が何だか分からなかったが、バイト代10万円の理由がその時初めて分かった気がした。結構もろに水がかかってしまい、私はずぶ濡れだった。
「申し訳ない。家すぐそこだからちょっと寄って行って。乾燥機もあるし、お金も渡したい」
と成田くんが言い、そこでのコーヒー代も奢ってくれた。
私はのこのこ家まで上がり込んで、Tシャツを洗って乾燥してもらっている間、彼のねずみ色のTシャツを拝借して、出されたロイヤルミルクティーを飲んだ。
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