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愛しい彼女に、私の財産を相続させることは可能だろうか。私の目が行き届かなくなった後先を考えると、胸が張り裂けそうになるほどに苦しい思いがあふれ出す。
「遺書か……」
「先生? どうかなさいましたか?」
「松河くんのテーマが私に響き過ぎてね。ふと私が死んだ後のことを考えていたよ」
叶に聞こえないように、身を乗り出して声をひそめる。小さく首を縦に動かした松河も身を乗り出してきた。
すっと、彼女のまとう柑橘系の香りが私の鼻腔に舞い込んだ。
「それで遺書をと考えたのですか?」
「ああ、きちんと書くべきかとね」
「良いと思います。先生は叶ちゃんと養子縁組を組んでおりません。このままでは遺産は叶ちゃんには相続されないでしょう」
「私の家族はもういない。残った財産が国庫に入るのも、戸籍上の顔も知らない遠い縁者につけこまれるようなことになるのも避けたい」
「ではやはり、遺言書を書いておくのが良いと思います。私でよろしければ、書類などの段取りを整えますが?」
松河の思いもよらない申し出に、私は二つ返事で頷いた。
彼女の手際の良さはよく知っている。こんなことを頼むのはお門違いであると思っていたが、渡りに舟であった。
「是非、お願いしたい」
「かしこまりました。では、次回の打ち合わせの時までに用意しておきます」
頷いた松河は、珍しくにこりとほほ笑んだ。私は束の間、その笑顔に見とれてしまった。そんな自分を恥じるように、慌てて遺書には何を書くべきかと思案を巡らせる。
財産のことは当然として、彼女への感謝の気持ちもしっかりと書き綴っておきたい。老いた自分に舞い降りた、天使のような存在。それがいかに自分の救いであったか。何度、心を癒されたのか。思いは尽きない。
あれこれと考えを巡らせているうちに、ほとんど耳に入ってくることの無かった打ち合わせは終わりを迎えた。
松河は呆れたような顔をして、書類をカバンに仕舞っている。
「先生、もしもの時の事を考えることも大切です。でも今、娘さんと過ごす時間も大切にしてあげてください。またね、叶ちゃん」
松河は叶に声をかけて我が家を去っていった。その後ろ姿をじっと見つめて、息を漏らす。
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