恋文の向後

5/10
前へ
/10ページ
次へ
 叶が心配そうにこちらを見つめていた。咳払いをして、明るい口調で話しかける。 「打ち合わせが長引いてしまったな。今日はもう疲れただろう?」  叶は伏し目がちにこくんとひとつ頷き、下を向いた。  そのまま首をあげず、力無く俯いている。 「寝室に行こう」  叶の部屋まで車椅子を押し、叶の脇に手を差し入れる。  叶がしなだれかかるようにして、身を預けてきた。髪に馴染んだあまい香油が、肺に流れ込んできた。目の中にいれても微塵も痛痒を感じないであろうほどに可愛い娘が、なんの抵抗もなく私の腕の中にいる。  幼くあどけない香りは、それでいてどうしようもなく蠱惑的であった。  私がいなければ、生きていく事も危うい。脆く儚く美しい娘。  叶の頭がこつんと私の肩にのった。私の胸の鼓動が、かすかに速くなった気がした。 「今、ベッドに運ぶからな」  よりかかる叶を抱えて持ち上げ、倒れ込むようにしてベッドに移す。歳を重ねるごとに、一連の作業に苦労するようになった。背中を伸ばすために大きく伸びをする。  その瞬間胸苦しさに襲われ、私はベッドに倒れ込んだ。ベッドが軋み、すぐ横に寝ている叶の小さな身体が揺れた。  胸の痛み。最近は前よりずっと頻度が多くなっている気がした。何度も深く呼吸を繰り返す。この痛みは、慌てて呼吸を乱すと余計に苦しくなるのだ。  叶の冷たい手が、私の髪に触れた。  白く清らかな手に、ひやりとした冷たさがよく似合う。熱を帯びた額に触れた指先が心地良い。  ああ、この子は本当に天使なのだ。なんて優しい冷たさなのだろう。  叶の胸の中で、眠りにつきたい。そんな思いが頭をよぎった。だが、この美しい娘の胸で眠れば、私はきっと二度と目覚めることを忘れる程に深く眠ってしまうに違いない。  その前に、するべきことがあった。この思いと財産を彼女に遺すために、書かねばならないものがある。胸の苦しさが、少しずつ収束していった。 「驚かせてすまない、大丈夫だ。おやすみ」  そう告げた私の顔を見て数度瞬きした叶が、静かに眠りにつく。私はその美しい寝顔を、飽きることなく眺めていた。
/10ページ

最初のコメントを投稿しよう!

4人が本棚に入れています
本棚に追加