恋文の向後

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 かつてたった一度だけ、胸を焦がすような恋をした。  あの時、震える手で不器用な恋文を書き記した時でさえ、これほど心が躍る感覚はなかったのではないだろうか。  あの日感じた、一生に一度と思った恋心。狂おしいほどの熱情に、人生の終着駅を目の前にした今二度目が訪れるなんて、思いもしなかった。 「彼女に出会えて、本当に良かった」  思いを、感謝の気持ちを溢れ出すままに書き綴る。  そこにはベストセラー作家とはかけ離れた、裸の自分がいた。  巧緻さも技術も何もない、抜き身の心が紡ぎ出す言葉の数々。青臭くもあり、未熟でもあり、だからこそ、何よりも本心を語っている。  思いは尽きない。  繰り返し、繰り返し。出会った奇跡と、ともに生きた軌跡を書き連ねていく。 「逢瀬のようだ」  これはまるで今までの幸せな記憶との、逢瀬である。  黒く美しい瞳を、凛とした声を、かすめた香りを、全てを記そう。そして、全てに感謝と愛の言葉を添えよう。ついに伝えることの出来なかった、悲しく惨めな恋心さえも。  机にしがみつくように書いた長い逢瀬を終えたのは、辺りがすっかり夕闇に包まれ始めたころであった。カーテンの隙間からは、赤い日差しがかすかに差し込んでいる。  本棚に並ぶ、私が生きてきたもうひとつの軌跡。  そして、大切な恋の思い出の欠片。 「ここにしよう」  思いを詰め込んだ遺書は、ここに置くことこそ相応しい。本棚の上段に手を伸ばし一冊の文庫本を取り、本の間に遺書を挟みこむ。  ここならきっと、この手紙を彼女が見つけてくれるはずだ。  祈るような気持ちで本を棚に戻し、その足で叶の部屋に向かう。部屋に送ってから随分と時間がたっている。きっと今は眠っていることだろう。その横顔が、恋しかった。
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