恋文の向後

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 一か月。  この家が私の財産になるのに要した時間だ。  手渡された鍵で玄関の扉を開ける。靴を脱ぐのも面倒で、そのまま居間にあがりこむ。 「案外、簡単だったわね」  書類と遺書を書いた夜、松本葉造は寝室で一人静かに息を引き取った。後どれほど生きるのかと思いながら作った書類は、皮肉にも命日に記入されたことになる。  それはあまりにも予想外のことで、おかげで私は随分と警察に疑われた。  だが、編集長が松本は恋をしていたと証言し、週刊誌のスクープ記事も証拠として役に立った。何もかもが、思い描いていたよりもうまくいった。 「お久しぶり、叶ちゃん」  車椅子が居間に置かれていた。そのうえに相も変らず叶が座っている。  耳元で囁きかけると、髪が不快な香りを放っていた。  舌打ちをして、車椅子を思い切り蹴りつける。派手な音をたてて車椅子が倒れ、大きな人形が床に倒れ込んだ。何も映し出さない青い目が、うつろに天井を見上げている。  バカな男だ。  こんな人形を自分の娘だと思い込んで、何度も愛の言葉を囁く姿を見せられた。  そのたびに吐き気を催したものである。叶、と人形に向かって私の名前を呼ぶあの男の顔に、唾でも吐き掛けたい衝動に襲われた。  松本叶。ペンネーム、松河美里。  あのバカな作家は、私のペンネームを最後まで本名と信じて疑わなかった。編集長から同じ苗字の縁でと勧められた担当であったが、こんな幸運が舞い込んでくるとは思いもしなかった。  ベストセラー作家の編集である。名前が紙面に載ることもあるだろう。宣伝にでもならないかと思いペンネームのまま担当を志願したことが、こんな運を手繰り寄せることになるとは。  人形の名前を相談されたときも、ここまでの展開は考えもしなかった。  大金持ちの老人が、私の名前を口にして人形を愛でている。そこから何か訴訟でも起こし、利益が生まれることもあるかもしれないと思っていただけだ。  まさか遺産が全て転がり込んでくるとは、これであの何度も感じた怖気も報われるというものだ。 「叶、叶、叶、叶……。本当に大好きだったのねぇ。バカな男」
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