恋文の向後

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恋文の向後

 ぼおん、と時計が低く軋んだ声をあげた。  古ぼけた柱時計は相も変わらず無愛想に時間を告げている。二度続いた濁った音に、私は椅子から腰をあげた。 「もう二時か」  背筋を伸ばすと、胸元に痛みとも違和感ともつかぬものがこみあげ顔を歪めた。歳を取れば、色々と身体もくたびれてくるものだ。胸苦しさに、大きく深呼吸を繰り返す。  胸の奥が、果実の淡い香りに満たされる。  呼吸が整うと机の上に積み上げられた本を手に取って、ひとつひとつ本棚に戻していく。カーテンの隙間から微かな陽射しが、本棚の下の段に差し込んでいた。 「やれやれ、日の当たる本棚とはな」  本棚を設置した業者は何を考えているのか。  陽射しを浴びれば本は褪せて傷んでしまうが、数多ある本を放置するわけにもいかない。ずらりと居並ぶ本たちは、我が子同然であった。『著・松本葉造』と記された私の作品たちをこんな目にあわせるのは心外である。  壁一面に備え付けられた本棚のほとんどが、自著で埋め尽くされていた。  親は子にすべからく平等であるべきである。  私はそう考えていたし、いくつかの著作には実際にそう記したこともある。それでも、本棚の日に当たる下段とそれを避ける事の出来る上段に、我が子であるはずの本を選別することが出来てしまった。  愛すべき子が増えすぎたのだろうか。上段の最も奥、決して陽差しの届かない場所に置かれたカバーをかけたあの本は、こんな私を見てどう思うだろうか。 「選別するほど出せたのは、幸せな事だ」  心に揺蕩う本を選り分けた後ろめたさを誤魔化すように呟き、カーテンを締め直して書斎を出た。あと十分もすれば、編集の松河が打ち合わせにやってくる。  娘も喜ぶだろう。娘は彼女にとても懐いているようなのだ。つややかな板張りの廊下を歩き、娘の部屋へ向かった。
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