春*はじまらないものがたり

4/28
211人が本棚に入れています
本棚に追加
/365ページ
 下から聞こえた声に驚く。  気付かなかった。何時(いつ)の間に其処にいたのだろう。  僕の隣に設置されたベンチに、少女が腰掛けていた。  色素の薄いチャコールグレーの長髪を掻き上げ、見慣れた顔を僕に見せる。  疑問が口を突いて出た。 「何時から……」 「何時からでも良いじゃありませんか」  彼女は口元を緩めるばかり。その微笑みに、僕は彼女を見下ろしている筈なのに、逆に見下ろされているように錯覚した。  風が再び吹いて、地に落ちた薄紅の花弁が宙に散ってゆく。  それを指で追いながら、彼女はポツリと呟いた。 「花が」 「うん?」 「君ももう直ぐ咲きますな、と」 「────カクレ」 「楽しみにしていますから、綺麗に咲いてくださいね」  花弁を追っていた手を下ろして、彼女が僕の樹皮にそっと触れる。指先の温度が心地よくて、僕は包まれているような気持ちになった。 「本来プラタナスは、花よりも実の方で有名なんだけどね」  僕の柔らかな反論に、彼女は飄々と返してくる。 「勿論、実を成すのも楽しみですよ」 「そんなに何でもかんでも楽しみにしないでくれないかい?」 「嫌ですな。仮にも博愛主義ですから」  ハハ、といつものように笑い合う。慣れた彼女との会話に興じれば、小さな憂鬱も自然と感じなくなっていた。
/365ページ

最初のコメントを投稿しよう!