夏*つづけられないものがたり

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 蘭堂親子は、その後間もなく帰宅して行った。  進太郎の不興は相当買ったものの、町議はそれも含めて思うところがあったようで、成る程なぁと(しき)りに顎を擦りながら去っていった。  会食に参加していた鈴懸の大人達も──一部、蘭堂との縁談を望んでいた者は、苦虫を噛み潰したような顔をしていたものの──夕食の頃には一先ず安堵し、落ち着いた様子を見せていた。  半分は、蘭堂の顔に泥を塗らない結果となったことに。  そしてもう半分は、同席していた夏臥師の御曹子の機嫌を損ねなかったことに対するものだと、察するのはあまりに容易なことだった。  夕食の後、水仕事を終えて縁側で寛ぐ私の横に、洋一郎は腰掛けた。 「夜にもなれば、随分と涼しくなってきましたね」  無言で庭の暗がりを眺めていた洋一郎の隣は、妙に居心地が悪く、私は気付けばそう声掛けをしていた。  洋一郎は暫く無言を貫いたが、やがて小さく口を開いた。 「選択はお前に委ねたばかりだ。だが、あまり待たせはしないでほしい」  核心を突く彼の言葉に、今度は私が答えを失くすばかりだった。  今となっては、夏臥師本家との縁談を反故にすることをはっきりと口に出せるのは、彼だけとなってしまった。  それでも、蘭堂の件が起こる前と変わらぬ言葉を貰える私は、幸福者に違いない。    今度こそ迷いなく、私の行く先について考える時が来たのだ。  幸運にもその機会は与えられ、賽は投げられたのだと知った。  十歩先も見えないような暗闇の中、虫の音だけが月夜に響く。  あれはもう、夏の虫ではなく、秋の虫の声だろうと思った。 「遅くとも、雪が降る前には返事を貰いたい」  大真面目に言ってのけた洋一郎の言葉は、急ぐと言うには猶予があり、それはこの数日で知った彼の優しさを表しているようで、少し可笑しいと感じた。
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