其ノ六

3/5
25人が本棚に入れています
本棚に追加
/58ページ
「お前は四日間眠って、目を覚まさなかった。医者も、このままでは命が危ないと言っての……」  弥太郎は、また大きく息を付いた。 「わたしは、長兵衛さんを呼んだのだ。それが夕べのことだ」 「――」  喜助の胸にも、何かざわつく気配が感じられた。 「あの茶色の絣(かすり)、あれは夕べ長兵衛さんが着てきた着物だ」  着物だけ残して中身がいない。長兵衛は裸でうろついている訳ではない筈だ。  だとしたら――だとすれば――?  スッと背筋が冷えるのを感じる。  髪の毛一本残さずに、伯父はどこへ消えたと言うのか? 「……弥太郎さん。俺は、この村に帰ってはいけなかったんじゃないだろうか」  喜助は己を責めた。  やはり、あの杉の木は、この世とあの世を隔てる門だったのかもしれない。  帰るべきではない者が帰ってしまった。  そのせいで、命ある者が、消えてしまったのではないのか? 「分からない。だが……ひとつ気になることがあるのだ、喜助」  弥太郎は長兵衛の着物をチラと見遣り、額の皺を深める。 「何でしょうか」  喜助は居ずまいを正し、年長者の横顔を見つめた。 「お前の脛の傷痕のことだ。医者は、蔦のようだと言っていた」 「蔦……」 「お前の恩人の名は、おつたさんと言ったか?」 「はい。でも――まさか」  思いがけない指摘に戸惑いつつも、再び胸の深部がザワザワと波立つのを抑えられない。 「わたしも、偶然の一致だと思うのだ。そう思うのだが……どうしても思い過ごせぬ」  皆まで言わずとも、互いに行き着く憶測の果ては重なる気がして、口をつぐんだ。  山鳥のさえずりが襖の向こうから軽やかに響く。  穏やかな朝の気配が、奇妙な程遠くに感じられた。 「弥太郎さん。今夜、月が出たら、俺は村を出ます。もう……戻りません」  決意を告げたのに、喉の奥が詰まった。滲んだ涙は、悔し涙だ。 「喜助……」 「何も恩返しできず、心残りです。でも、そうすることが、最善かと思います」  瞳を赤くして、まっすぐに自分を見返す若者を、胸が潰れる思いで眺めた。まるで悪意の欠片もないのに、救ってやることができない。  互いの考えが当たっていれば、もはや目の前の若者は、人の形をするも人ではないのかもしれない。
/58ページ

最初のコメントを投稿しよう!