其ノ六

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 ギュッと胸が詰まったが、長兵衛のような被害者を出してはいけない。  口を真一文字に結ぶと、喜助は東の空を見上げた。  黒々と横たわる山の稜線を仄かに染めて、綺麗に割られた下弦の月が浮かんでいる。  ふぅ、と息を吐き、村外れの丘を目指して歩き出した。  サク……サク……と喜助の足音が寝静まった村の静寂を小さく乱す。  ――ワワワワワン!  気を付けていたのに、近くの家から犬が吠えた。  それをきっかけに、犬達が騒ぎ出す。  湿り気の残った柔らかい通りを、足を取られないよう注意しながら急ぐ。  村の一番外れにある源作爺さんの庭先でも、仲間の警戒に異常を汲み取ったシロが唸り声を立てていた。  小走りに通り過ぎながら、喜助は己の身の異変を、犬達が真っ先に気が付いていたのだと思い知った。  遠吠えに追い立てられるように村を去る。  後悔と惨めさに、喜助は叫び出しそうな衝動に駆られながら、夜道を駆け抜けた。  丘の頂に着くと、息が切れた。両膝に手を当てて、しばらく荒い息を整える。  初夏を過ぎた真夜中の野原では、名も知らぬ虫の声があちこちから響いていた。  雨の後のひんやりとした夜風が、上気した身体に心地よい。  汗の浮かんだ額を着物の袖で拭い、喜助は故郷を振り返った。  細い川沿いに、茅葺き屋根が十数軒。  喜助は刻むように眺めた。  目の前に広がっているのに、その中に加わることが許されない。  もう、彼にはおつたの庵しか行く当てはないのだ。  グッと歯を噛み締めて、喜助は懐から蔦の葉を取り出した。  日にちが経過しているのに萎れることもなく、おつたに渡された時と変わらず活き活きと青い。  彼女に教えられた通り、傾いた半月に葉をかざす。  すると――村に帰って来た時と同じように仄白く光る道が、丘の向こう側に現れた。  この道の先に、おつたが待っている。  ただ愛しかっただけの彼女への気持ちは、今や懐疑的に揺れている。  それでも――会いたい。  会って、確かめたい。  彼女が何者なのか、自分が何者になってしまったのか――。  喜助は、白い道に踏み出した。つい急く歩調を抑えながら、真っ直ぐ前だけを見据えて、覚悟の戻り道を辿って行った。  その数尺後ろを、足音を殺して追いかける人影があった。喜助は全く気が付きもしなかった。
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