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「喜助?!」
「ここだ、親父! っ……いてぇ……」
三尺程下ると、笹の中から喜助の手が見えた。
引き起こそうとしたが、足を挫いたらしく、息子は立ち上がれない。
「……まずいな、このまま降りるか」
「親父、すまねぇ……」
「いいさ。こんな日もある」
五十に手が届こうかという久兵衛は、長年猟師で鍛えられ、足腰が強い。
二十歳そこそこの息子に肩を貸しても、支えて歩くくらいの体力はあった。
道なき道を、足場を確かめながら進む。半時も下ると、突然緩やかな平原に辿り着いた。
「ここは……山を越えたのか?」
「いや……分からない」
草丈は腰まであるものの、急に開けた視界に二人は戸惑った。
長年この山を歩いた久兵衛ですら、初めて訪れた場所だ。
すっかり暮れた空には薄く雲がかかり、星から方角を読むことも難しい。
「とにかく、進むしかないだろう」
久兵衛は、またゆっくりと前進した。
触れている喜助の身体が冷えてきた。もしかすると、足の痛みは捻挫ではなく骨折かもしれない。
「――親父、すまねぇな」
草原をかき分けかき分け進む内に、喜助自身、自分の状態に気付いてきた。
捻ったと感じていた右足は、足首ではなく、むしろ膝下辺りが異常に熱く、感覚が弱い。妙な脂汗が額から背中まで、じとりと吹き出している。
元はと言えば、自分が深追いしたせいだ。父親が帰ると言った時に、すぐに山を降りれば、こんなことにはならなかったはずだ。
「……こんな日もあるさ、喜助」
『こんな日もある』――親父の口癖だ。
猟師を生業とすれば、農家のように一定の収穫を見込むことはできない。
獲物に出会う出会わないも、それを仕留める仕留められないも、全て運次第だ。山の神に感謝しながら、日々コツコツと生きていくしかない。
自らの軽率さを悔いながら、それを責めない父親に心の中で頭を垂れた。
「オレも昔、爺さんの言うことを聞かずに、山で迷ったことがあってなぁ」
ポツリ、久兵衛が独り言のように語り出した。
喜助の足取りが覚束なくなってきた。弱気な言葉といい、骨折の痛みで集中力を欠いてきたのかもしれない。
「――親父も?」
「ああ」
息子の状態が心配だが、こんな見知らぬ場所で立ち止まる訳にはいかない。
久兵衛は、話し掛けることで、喜助の意識を繋ぎ止めようとした。
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