其ノ七

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 胸丈を越える草原を掻き分けた先に、あの杉のシルエットが見えた。  夢中で進んできた喜助は、杉の前まで辿り着くと、その背後に回ることを不意に躊躇った。  この木の向こうは、人の世ならぬ異界だ。  しかし、来た道を引き返すことも叶わない。  耳の奥に、シロ達の咆哮が甦る。  梢の見えない杉を見上げ、ひとつ頷くと、喜助は猟銃を担ぎ直した。そして、杉の幹をぐるりと回った。  彼の身を取り巻く空気が微かに湿気を増した気がした。 「――おつた! 帰ったぞ! 俺だ、喜助だ!」  月明かりが弱い薄闇の中、庵の前で声を掛けたが、シンと静寂に包まれている。 「……葉が」  木戸に近づくと、あれほど豊かに庵を覆い茂っていた蔦の葉の大半が、枯れ落ちていることに気付いた。  緑の葉も幾らかあるが、全体的に茶褐色に退色した印象だ。  それにしても、おつたが出て来ない。 「どうした、おつた? 具合でも悪いのか?!」  喜助は猟銃を構えながら、木戸に手を掛けた。  閂が掛かっているのか、ガタガタ揺らしても、開かない。 「おつた! 開けてくれ! 喜助だ、戻って来たんだ!」 「――喜助さん?」  弱々しい声が、やっと返ってきた。  やや掠れた低い声は、聞き慣れない女の響きだ。 「おつたなのか? どうした、開けてくれ!」  カタ……カタ……と庵の奥から物音がした。  喜助は猟銃を構えたまま、木戸が開くのを待った。  しばらくすると木戸が揺れ、ようやくゆっくりと開かれた。 「――おつた?」  藍染の見慣れた着物。長い髪に白い腕。  しかし、ユラリと戸陰に立つ細い影は、酷くやつれている。 「どうしたんだ、おつた!」  思わず銃口を下ろして、駆け寄った。  きちんと纏められていない髪には白いものが混じっている。肌には張りがなく、美しかった彼女は二十歳以上も老けて見える。  たった――十日も経たぬ間に、一体どうしたことだろう。 「……見ないで、喜助さん」  おつたは、潰れた蛙のような醜い声で、泣き出しそうに俯いた。 「お前が、異形の者だということは分かっている。だが……その姿は、どうしたのだ?」  髪の間から覗く瞳は黒く、潤んでいる。その瞳だけは、変わらずに美しく見えた。
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