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「あれは……オレがお前くらいの歳だったかなぁ。秋の霜が早い年で、婆さんが流行り病に倒れたんだ」
喜助の祖母は、彼が産まれる前に亡くなっている。あまり身体が丈夫ではなかったと聞いている。
「精力付けて欲しくてな、オレはどうしても大物を持って帰りたかった」
喜助の息づかいに気を配りながら、久兵衛は続けた。
「爺さんが『山を降りる』と言った時、オレ達の前に大鹿が飛び出してきた」
「鹿……警戒心が強いのに?」
「そうだ。まるで山の神様が、持っていけと言ってくれた気がしたな」
「――仕留めたのか」
「いや。散々追いかけて、道をはぐれて……凍えながら山で一晩過ごした」
久兵衛は、自嘲気味に苦笑いした。
「そうか……」
「爺さんにこっぴどく叱られてなぁ……」
あの夜のように迷って歩くからだろうか。日常に埋没していた古い記憶が、昨日のことのように懐かしい。
「……親父は、叱らないんだな」
息子の呟きに、久兵衛はますます苦笑いが深まる。
「そうだなぁ。獲物を追いたいと思うのは、猟師の性だ。それに、引き際を身に付けるには、経験が必要だからな」
自分が辿った道だから、喜助の気持ちは手に取るように分かる。叱ってどうにもならないことも、然りだ。
「経験か。――寒いな」
喜助はブルッと身を震わせた。熱が患部に集まっているのかもしれない。
「喜助、しっかりしろ」
至近距離で息子に視線を向けると、彼は左手の一点をジッと見つめている。
「俺、おかしいのかな。灯りが見える」
「喜助?」
「……ほら、あそこに木の影があるだろう? その向こうに、見えないか」
二人は立ち止まる。確かに、進行方向の左奥三十間程先に、杉のように高い木の陰影が一本見える。
――チカッ
「本当だ、灯りだ……!」
久兵衛は声を上げたが、疑うようにもう暫し目を凝らした。
――チカチカッ
ひと処で放たれている小さな灯りは、手前の梢に遮られているのか、輝きが安定しない。
「喜助、もうひと踏ん張りしろよ」
「ああ……」
答える声に張りがない。行き先に確信なく進んでいる二人には、灯りを目指さない理由はなかった。
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