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「はい」  彼は大人しく傘から手を離して歩き出し、しばらくしてふと思い出したように言った。 「そうだ。あの、綾瀬さんにお願いがあるんですが」 「なに。出張旅費の前借りとか?」 「いや、そういうのじゃなく。……来月一日付けで大阪支社に異動が決まったんですが」 「ああ。向こうで欠員出たから誰か行くとは聞いてたけど。……まあ、仕事出来るからの抜擢だろうから、頑張って」 「ありがとうございます。それでですね……あの、一回立ち止まってもらえませんか」  足を止めた私の傘の中に身を屈めて顔を入れて、彼は言った。 「デートしてくれませんか。異動の前に、一回でいいから」 「……は?」 「いや……あのですね」  まだ何か言おうとする彼の肩を押して私は言った。 「ちょっと離れて。朝から何やってるのかと思われる」 「え。ああ。キスでもしてるみたいですか」 「だから離れてって言ってんの。会社の人間が見たら」 「別に僕は構いませんが」  ぼそっと呟いて彼は傘の下から出て行く。 「今すぐ返事じゃなくていいから、考えといてください」  そのあとすぐに営業部の人間が通りがかって、彼は何事も無かったようにそちらと話し始めたけれど。  正直、なんでそんなことを言うのか。見当もつかなかった。  
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