たった一杯分の時間

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 ことり、と薫り高いコーヒーが置かれた。 「ごゆっくりどうぞ」 「ありがとう」  マスターの渋い声も、記憶を呼び覚ます。  あの日も、こんな風に雨が降っていた。今日みたいにどんどんと雨足が強くなって、それはまるで自分の心のようで辛かった。  当時付き合っていた彼は、マスターのように渋い声をしていた。その声で自分の名前を呼ばれることが好きで、あの時は、本当に、本気で好きになったのはその人が初めてじゃないかと思うくらいにはのめり込んでいた。  少し厳つい風貌の彼は、どことなくミステリアスで、いろんな人に好かれていた。もしかしたら危険な香りが非日常的で、それでどきどきしていたのかもしれない。  それでもその時付き合っていたのは、確かに水玖だった。そう、思っていたけれど実際はどうだったのだろう。  疑ったのはマスターと同じような渋い声で 「おまえ、あいつと友達止めた方がいいと思うけど」 と言われた時だった。  人に干渉するような彼ではなかったから、その言葉がとても不思議なものだと感じた。  彼が“あいつ”といったのは、水玖の当時一番仲良かった女友達である。仲は良かったが、とても気が合うかと問われれば、否と応えるだろう。コンピューターでマッチングしたかのように100%気が合うような友達など、それこそ奇跡のようなものだろうから、普通に友達かと問われれば諾と応えることはできる、そんなさらりとした友達関係であった。  それが止めた方がいいと言われれば不思議に思うもので、当然、水玖は何故か問うた。 「この間、みんなで集まった時、時間が遅くなって終電逃したから帰れなくなったって、おまえ聞かなかったか」  みんなで集まったのは、かれこれ半月ほど前の話だ。  水玖はそんな話、まるで聞いたことがなかった。もちろん、泊めてほしいとも言われなかった。  そうしたらいったい彼女はどうしたのだろう。とても素朴な疑問であった。  水玖以外に泊めてほしいと言えるようなメンバーの参加は無かったはずだ。彼と彼女は2、3回会ってはいるが、他のメンバーはそれこそ初めて会うのでは、というくらい、彼の友達、もしくは水玖の友達がメインの集まりだった。
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