第三章 蕾のまま

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 心地良い声だと思っていた。槇田が茂田達と他愛のない会話をしているとき、その深みのある、穏やかな低い声に無意識に耳を傾けていた。  眠れない夜も、槇田の声を思い浮かべると何故か心が落ち着いて、短くても穏やかな眠りに落ちることが出来た。  在宅の仕事をしていると、時々自分が世界から切り離されたような気分になることがある。元々インドア派なので、自分に向いた仕事だとは思うが、それでも時々自分の思考に閉じ込められてしまう時があるのだ。  夕食時などに、その日一日の充実感を纏って話す彼が眩しく見えた。六歳も年下とは思えない、落ち着き払った佇まいに惹かれ、そのくせ時折その瞳に滲ませる激情のようなものに心を乱された。  若く、逞しいその身体に組み敷かれたいと思うようになったのはいつからだろう。男しか愛せない自分が、この魅力的な年下の男に惹かれたのは当然のような気もした。  けれど彼がこの先それを知ることはないだろう。なんでもないフリをして、おまえの声が好きだと告げるくらいが精一杯だ。  数日前、彼の友人だという青年が訪ねて来た。留守だと伝えると、彼はまじまじと自分を見て、少しためらったあと、失礼ですが、あなたは杉田香奈(すぎたかな)さんのご家族とかご親戚ですか、と訊いた。  違うと答えると、彼はまだ少し納得が行かないような顔をして、それから「…あいつは何をやってるんだ」と辛うじて聞き取れるほどの小さな声で、苦々しげに言った。  それでなんとなく判って、「僕は誰かに似ているんですか。例えば、槇田君の近しい(・・・)人に」とカマをかけてみた。  すると善人らしいこの青年は微かにうろたえ、口ではいいえ、と否定しながら、逸らした目で馨の問いかけを肯定した。  不思議と失望はしなかった。初めから期待などしていない。ただこれまでがそうであったように、馨の想いは硬い蕾のまま死んだだけだ。
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