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微かにきしむ扉を開くと、古い本独特の少し黴臭いような、甘いような、懐かしい匂いが鼻腔をつく。
とうに夕闇に包まれたこの図書室の中で、唯一灯りが点されているデスクの上に、小さな頭を乗せて眠っている姿を見つけ、槇田は軽く溜め息をついた。
濃紺のロングガーディガンの裾が、床にまで届いていて、無防備に晒された背中はほっそりと頼りなく、一見その人の性別を判らなくさせる。
デスクの上で折り曲げられた肘に押し出されたのか、床には文庫本が一冊落ちていた。それを拾い上げ、槇田は「彼」の寝顔をまた少し見つめた。
ゆるいウェーブのかかった、少し長めの黒髪は、繊細な造りの顔を柔らかに包み、少しズレた眼鏡のレンズ越しに綺麗に生えそろった長い睫が見える。
初めてこの人を見た時の驚きは、忘れない。
あまりにも似ていたから。
自分がかつて愛した人に。
「ん」
気配に気付いたのか、彼、高森馨は小さく身じろいで、幾度かの瞬きののち、パチリと目を開いた。
「風邪引きますよ、こんなとこで寝てたら」
「ああ、……寝ちゃってた」
馨はぶるりと身を震わせ、自分の身体を抱くようにしながら、突っ立ったままの槇田を見上げる。
それから槇田が持っている本に気づき、悪い、と言って受け取った。
「夕飯、出来たって。茂田さんが」
「そんな時間か」
馨は眼鏡をかけたまま、軽く目頭を押さえた。
「水澤泡影、ですか」
槇田は馨の手の中の本の表紙を見つめる。古い短篇集だ。
「ああ、知ってるか?」
「ええ。朗読会で一度読んだことがあります」
大学一年の頃から、槇田は区のコミュニティーセンターで、目の不自由な人たちのために、朗読ボランティアをしている。それは四年生になった今でも続けていた。
「そりゃ、憂鬱な朗読会だっただろうな」
馨が意味ありげに笑う。確かに水澤泡影の作風は決して明るいものとは言えないが、馨の笑みには、何かもっと別の意味がこめられているように思えて、槇田は探るように馨を見た。
だが、馨は小さく肩をすくめただけで、デスクのランプを消すと、気だるげに立ち上がり、眠りを引きずったような足取りで出口へと向かった。
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