617人が本棚に入れています
本棚に追加
一階のダイニングルームに入ると、いい匂いが漂っていて空腹が刺激された。もう一人の下宿人である梶山がすでに席についていて、にこにこと槇田たちに笑いかける。
「今日は洋風ご飯らしいですよ」
人好きのする笑顔は、梶山のトレードマークだ。歳は三十二歳と聞いていた。都内で不動産会社の営業をしており、趣味は古い建築物を見て回ることだそうだ。
休みになればあちこちの洋館や古民家などを巡る小旅行を楽しんでいるらしい。この下宿を選んだのも、その趣味が高じてのことだと言っていた。
だが間もなく結婚するために、この下宿を出ることになっている。そうなると下宿人は槇田と馨の二人だけになるが、茂田は来年にはこの屋敷を手放すことにしたらしく、もう下宿人は募集しないということだった。
この建物には愛着があるが、そろそろ余生を自由に楽しむために手放す決意をしたらしい。昔から海外を放浪するのが夢だったそうだ。
まだ一年あるとはいえ、ここでの暮らしをとても気に入っている槇田は残念な気がした。
だがものにはそれぞれ時期というものがあるのだろう。大学生活をここで全う出来ることは幸運なことなのだと今は考えるようにしていた。
入口から縦に長いダイニングルームには六人掛けのテーブルが置かれていて、明るいクリーム色のクロスが掛けられている。
その中央には茂田が庭で育てている和花の花瓶が置かれていて、控えめな可愛い花がいつでも食卓を彩ってくれていた。
窓側には梶山が座り、その正面に槇田、その左隣に馨が座るのが決まりだ。管理人の茂田は続きのキッチンとの行き来があるので、梶山と槇田に挟まれた、いわゆるお誕生日席に座る。
「はいはい、お待たせ。今日はチキンですよー」
茂田が皿を器用に重ねて運んで来たのを槇田が受け取り、それぞれに手渡してゆく。
この茂田は今年還暦だと言っていたが、見た目はずっと若々しい。伸ばした銀髪を後ろで束ね、家の中でも薄く色の入ったサングラスみたいな眼鏡をかけている。身長もこの年代の人にしては高く、しっかりとした体つきをしていた。
カメラが趣味の彼は、時々短い旅行をしては、槇田たちに様々な写真を見せてくれる。
自由人らしく生涯独身を貫くつもりだという彼は、元々家が素封家らしく、この古い下宿の家賃収入だけでも生活には困らないらしい。
若い頃、銀座のレストランでコックをしていたこともあるそうで、料理の腕前は確かだ。毎晩、下宿の賄いとは思えないほど凝った料理を提供してくれる。
槇田がこの下宿を気に入っている大きな要因の一つが、この茂田の料理だ。
今夜のメニューは、チキンのローズマリーソテー、トマト風味のバターライス、春キャベツとそら豆のポタージュスープといった内容だ。春らしい、明るい彩りが目にも楽しい。
全員が席に着くと、いただきますと声を揃えてから食べ始めた。まるで家族団欒の図みたいで、槇田は毎回気恥ずかしくなるのだが、それもきっと、ずっと先に懐かしく思い出すことになるのだろう。
「あー、ウマい、さすが茂田さん。僕もう、このご飯なしじゃ生きてけないですよ」
「なに言ってんのよ、これから奥さんの手料理いっぱい食べさせてもらうんでしょ」
「あ、そうなんですけどねっ」
梶山と茂田の会話に、槇田と馨も微笑む。
槇田が馨を見ると、チキンを小さく切り分けて口に運んでいる。じっと見ている槇田に気付き、なんだよ、と少し照れたような、怒ったような顔で馨が呟く。少し顔が赤いような気がして、それがなんだか可愛かった。
「馨君、大丈夫? お肉大きかった?」
「いえ、丁度いいです、いつもありがとうございます」
茂田に訊かれて馨は、はにかむような笑みを見せた。
馨は細い見た目を裏切らず、ひどく小食だ。食べる量はいつも槇田の半分くらいだろう。今日のチキンも大人用と子供用みたいだ。
「こうやって見てると、どっちが年上か判らないね」
梶山が面白そうに言う。
「なんですか、それ」
馨がふくれて見せると、皆から穏やかな笑い声が起こった。
「だって馨くんて年齢不詳だし、槇田くんは落ち着き過ぎだし」
「ふてぶてしくてすみません」
槇田が言うと、また笑いが起こる。
気持ちの良い人々と囲む温かい料理、他愛のない会話。それは槇田にとって、ひどく心が和む時間だった。
最初のコメントを投稿しよう!