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遠くの空に飛行機のランプが微かに見える。東京とは思えないほど、澄んだ夜空だった。
庭に立つ、盛りを少し過ぎた桜の樹は、バルコニーに影を落とすほどに背が高い。
薄紅の花弁が夜風に散らされて、ハラハラ…ハラハラ…、と舞い落ちるのを、槇田はつかの間ぼんやりと眺めた。
傍らに立つ馨は、その幻想的な美しい舞に気付くこともなく、煙草を挟んだ方の親指の爪を小さく噛んでいる。何かを考えている時の癖だ。伏せられた長い睫がどこか色っぽい。
このひとが男に肩を抱かれて歩いているのを一度だけ見たことがあった。そのことについて、自分が感じたことは何だっただろうと槇田は思う。驚き、嫌悪、気まずさ。
確かに衝撃はあったが、あとの二つは違うように思った。ただ、きつい酒をひと息に飲み干した時のような息苦しさと、全身を覆う倦怠のような感覚だったかもしれない。
馨はその時笑っていた。けれどあまり幸せそうな笑みではなかった。
急に強い風が吹いて、ザワリと桜の枝が浮き上がり、夜の闇に桜吹雪が舞った。その中に立つ馨の横顔が、一瞬見知らぬ誰かのそれに見えてハッとする。
「……!」
なぜか唐突にこみ上げた強い不安感に突き動かされ、槇田は思わず馨の腕を掴んでいた。
「え――」
馨が大きく身を震わせて、怯えたように槇田を見上げた。
「――な、に、」
「あ、いや……。――すみません」
槇田は動揺したまま、慌てて馨の腕を解放する。
なんだったのだろう。いまの感じ。――底なしの、喪失感のような。
馨はしばらく身を固くしたまま、槇田の様子を窺っているようだったが、槇田が何も言わないでいると、しばらくして、どこかやるせないような息を吐いた。
馨の黒髪に、薄紅の花弁がいくつか散りばめられている。槇田はそれを取ろうとして、手を止めた。可憐な花飾りは、不可思議な感情の名残のように、槇田の目の裏で小さく光った。
「――水澤泡影の何を読んだんだ」
奇妙な沈黙を断ち切るように、馨が唐突に訊いた。
まだ微かに動揺を引きずっていた槇田は、一拍遅れて、『夢蔓』と『幻燈草子』です、と答えた。
馨は、ふうん、と言ったが、さほど興味はないようだった。それきりまた黙ってしまう。
「水澤泡影が、どうかしたんですか」
馨は少しの間、静かに煙を吐き出していたが、しばらくしておもむろに告げた。
「おまえ、知ってる? 彼女、通説では行方不明のまま文壇から姿を消したってことになってるけど、本当は殺されたらしいって噂があったこと」
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