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「辞めるつもりはないんですけど……辞めたいなと思った事は何度もあります。でも折角就いた仕事だし、もう少し、もう少しって、なんだか惰性で働いていて、何が楽しいかも判らなくなって……」
「私もですよ」
私の言葉に、彼女ははっと顔を上げました。
「下積みの頃です。師匠と呼ばれる方の元で働いていました。それこそ何十年と通ってくださる常連さんがいましたけど……いつも文句ばかりで、だったら服など頼まなければいいのに、と思ったものです」
ご高齢の女性でした。普段着からパーティー用のドレスまで、毎月のようにいらしてました。
「私も若かったので」
いえ、今でも若いですが。
「師匠に言った事があります、あの方の仕事はしたくない、受けると私が嫌な気持ちになるからと。でも師匠は笑うんです、嫌な気持ちの後は、いい気持ちになるじゃないかと」
「……いい気持ち」
彼女は確かめる様に繰り返しました、私は頷き続けます。
「いつも楽しかったり、いい気持ちばかりだと、それに気付かないだろう。たまーに嫌な事があるから、いい事がとてもいいものに感じる。あの人だって意地が悪いわけじゃない、こだわりが人一倍あるだけだ、そのこだわりをうまく汲み取って、納得のいく服を作って差し上げる、気に入ればきちんとお金を頂けて、また注文が入る。あの方だって文句ばかり言って帰る訳じゃない、最後にはきちんとご褒美をくれるじゃないかと」
ご褒美は、代金とお礼の言葉です。
「その通りだなあと思いました。だから私は誠心誠意お洋服を作ります。ただの服ではないんです、皆さん、様々な想いがあります。 未来への希望だったり、思い出の再現だったり」
お受けしてきた皆様の顔が脳裏に甦ります。
皆様、生き生きとした表情をされています。洋服を仕立てると言うのはとても特別な事なのだと判ります。
お客様のお気持ちに沿う、それこそが仕立屋の一番の仕事なのだと学びました。
「あなたも今は辛い時でしょう。親や先生に守られていた自分だけの世界にはいられなくなりました、そして覚える事もたくさんあります。でもそれら全てはあなたの一部になるはずです、できるなら諦めずに、もう駄目だと思うところまで頑張ってみて欲しいです」
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