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(こういう仕事って、楽しそうだけど……)
直ぐに飛びつけないのが、大人の悲しいところだ。自営業なのだから、確定申告は自分でしなければならないし……。儲けが出なければ食べていく事すら困難になる。
それでも、今の結菜には眩しいばかりだ。真田という店員さんは、結菜と同じ年頃に見えるのに、ちっとも疲れを感じさせない。
好きな事を仕事にするのは、どんな感じなのだろう。少なくとも、今の結菜よりは良い精神状態のはずだ。
そんな荒んだ感想を持ちつつ、もう一口。
(美味しい……)
それに、何だか懐かしい味がする。
「あの……」
「はい?」
お盆を抱えたままの真田はまだ結菜のテーブルについていて、何か言いたそうにしている。
「本多さん、で宜しいですか」
「は?」
知り合いでも何でも無い人にいきなり名字を言い当てられて驚いていると、真田は自分の胸元を指差した。
「名札。付けっ放しです」
「はあぁぁ! も、もっと早く言って下さいよ!」
慌てて名札を外す。何時もなら仕事が終わったら即外しているのに、なんたるミスか。恥ずかしくて顔が熱い。思わず真田にも八つ当たりしてしまった。
でも、真田は気にした様子も無く、
「あの、重ね重ね失礼を承知でお尋ねしたい事が」
「な、何ですか? 何か、ついてます?」
慌てて結菜は顔と頭を撫でまくった。だが、違うようだ。
「貴方の親戚に、本多 薫さんと言う方はいらっしゃいませんか?」
いらっしゃるも何も、それは結菜の母の名だ。
「二十年くらい前にS病院に入院されていた方なのですが」
それも合致した。母は結菜が五つの頃、入院していた。
末期のガンだった。退院出来る見込みは無く、母は延命治療を望まず、自宅での養生を望んだ。小さかった結菜は、ただ毎日母が家に居てくれるのが嬉しくて……。
(そうだ、このケーキ……。お母さんが作るのと、おんなじ味がする……)
もうずっと忘れていた母の味。素朴で優しくて、ふんわり甘くて……。
「薫さんは、僕のお師匠なんです。あの、ご存知ですか?」
「私の、母の事だと思います……」
パッと明るくなった真田の顔が直ぐに暗くなる。きっと、結菜の沈んだ空気が分かったのだろう。
「すみません。母は亡くなりました。もう、随分前に……」
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