[イカロスは飛べず]

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[イカロスは飛べず]

 朝、風間弘がいつも通り定刻に工場に出勤すると、何やら場内が忙しい雰囲気に包まれていた。朝一早々に大きな仕事があるとは聞いてない風間は、周囲の同僚たちの慌ただしい気配を怪訝に思い、珍しく怒鳴り声を上げて指示している工場長を捕まえて尋ねた。 「どうしたんですか、工場長?」 「どうしたもこうしたもないよ。預かっていた爆発物の在庫をチェックしてみたら、ダイナマイトの数が合わなくて、今、てんやわんやと探しているんだ」 「数が合わない? 盗まれたんですか」 「そんなの知らんよ。もし、そうだったら大変だから、徹底的に調べているんじゃないか。あ、おい、第三倉庫の方も見てくれよ! あと一般の資材室も隅から隅まで調べろ!」  額に筋を立て脂汗をかきかき、大声を張って捜索を指揮している工場長ではあるが、風間は前々から、危険物の取り扱いはこの工場は杜撰だったからな、と考えていたのでさほど動揺もせず、周りを見渡しながら自分もダイナマイト探しに加わろうとした。  宇野も既に出勤してこの騒動に巻き込まれているに違いないと風間は思ったので、右往左往しているだろう宇野の姿を追ってみた。だが、一目見渡してみても宇野の姿は見当たらなかった。 まだ側でヒステリックに皆に指図をしている工場長に風間は再び声をかける。 「宇野君はいないんすか?」 「ああ。珍しく今日は休みだ。前もって申請しててな」 「前もって申請?」  病欠とかではないのか……理由なくどうも一抹の不安がよぎった風間。しかし、風間はすぐにそんな思いも払拭して、工場長の言うがまま爆破薬探索に奔走する羽目になった。  燦々と晴れた、正午前。  喫茶クラシック。  開店早々で夕方とは違い店内に客は少ない。  そこに宇野一成はいた。  例の如くアイス・コーヒーを片手に。 ただ普段と違うのは、傍らにボストンバッグを置いてあること。それに服装も作業着ではなくジャケットにパンツはコーデュロイを着込んでいる。  その営業時間が開始したばかりの店内に入って以来、両腕を組み、目を瞑り微動だにしない宇野。その様子を窺っている女給の黛。  こんな早い時間にいらっしゃるなんて珍しいわ。それに何だかスゴく険しい表情をしているみたいだけど。  黛は宇野のその姿を見て訝しげに思う。普段から店内でコーヒーを飲む時は、幾分宇野は強ばった顔になっているのは分かっているが、今日のその相貌の張り詰めた感じは威容かつ異様さすら覚えた。それにしきりに店内にかかる壁時計を気にしては、瞼を閉じている宇野の行為も気懸りになっている。  だが、そんな宇野に心を配る黛を他所に、宇野はただ時折深い溜息をつくだけ。黛は長い間、着席している宇野の隙を見ては、度々お冷を注ぎに宇野の席へ近づいた。一方、そんな黛の動きに対しても宇野は何の反応も起こさず目を閉じている。不動明王の象の如き身動きのなさ、と言っては過ぎるが、煩悩断ち切り怒りの形相を擁する五大明王と八大明王の主尊としては、その佇まいに通ずるものがあった。威圧、威光というものに近い、アウラが。  宇野は再び店の壁時計に目をやった。すると突然立ち上がり、側に置いていたボストンバッグを手に取りカウンターへと支払いに向かった。氷が溶けきってしまったアイス・コーヒーを半分以上残して。  宇野のその行動を見逃さなかった黛は慌ててレジへと駆け寄る。黛がレジの前に立つと宇野は無言でオーダー票を渡した。実際に宇野を目前にした黛は、宇野に対してただならぬ気配を感じた。いつも以上に張り詰めた雰囲気。ボストンバッグを片手に眉間に皺を寄せる宇野の表情に、喫茶店でくつろぐにはあまりにも似つかわしくない悲壮感漂う様子。宇野の醸し出す異様な緊張感を敏感に察した黛は、ほぼ無意識的に思わず、 「あ、あの、いつも当店をご利用なさって頂いてありがとうございます」  と単純な支払いの会計辞令文句以上の台詞を付け加えて宇野に話しかけた。これには宇野も虚を突かれた顔になり、 「え? いや、こちらこそ」  と財布から金を取り出そうとした手が止まり反射的に喋り返した。それから黛は勢いのまま無我に近い状態で宇野と言葉を交わそうと声を発した。 「いつもは夕方にいらっしゃいますよね。今日はこんなに早くいらっしゃったので、珍しく思い、ついお声がけをしてしまいまして、すみません」 「いや、今日はこれから用事があるので会社を休みましてね、それでまだちょっと時間があったから、一杯コーヒーを飲んでからと思いまして」 「あ、今日はお休みだったんですか。私、大学に通っているんですけど、今月はお金が苦しくて今日は大学の授業サボってアルバイトしちゃってるんです」 「へえ、大学に通っているんですか。ウチにも弟がいまして、来年大学受験するんですよ」 「弟さんがいるんですか。来年、合格するとイイですね」 「まあ、俺もそう願ってますよ」 「…………」 「…………」  見切り発車的な黛の会話。すぐに黛は話の語彙をなくし、沈黙してしまった。黛は微かに赤面して黙りこくってしまったが、宇野が店内の窓から外の景色を見ながら話を切り出した。 「昼間だというのに外は人が多いですね」 「あ、多分アレですよ。えーと、確か……」 「最近よくやっている例の大衆運動の見物人たちって所ですか」 「ああ、はい。そうです、そうです。今日もこれから表通りであるらしいですよ。あ、もしかしてこれからの用事ってデモに参加でもするんですか?」 「いや、参加というか、不敬な行進は止めなきゃとは思ってはいるんですけどね」 「え?」  さり気なく呟いた宇野の台詞。いかにも宇野は自然な口調で話したが、黛はその言葉自体に不自然さを覚えた。  そんな訝しげな表情を浮かべる黛を他所に、宇野は財布から二十五円を取り出し、 「どうもご馳走様。最後に君と話せて良かったよ」  と告げて支払いを済ませると、レジ脇に置いてあったマッチを手にして店をあとにした。黛は我に返り既に宇野の姿はなかったが、 「あ、あ、ありがとうございました」  と丁寧にお辞儀をして声を上げた。  自分でも思いがけぬ言動、行動に走った黛。紅潮した頬が熱として伝わり微笑を漏らす。大胆にも話しかけてしまった。恥ずかしいい気持ちと、嬉しい想いが重なって何やら甘酸っぱい感情に包まれる黛。そして、再び思い出す凛とした宇野の姿。  だが、その刹那、黛は心に懸かった宇野の台詞を思い出した。  不敬な行進を止めなきゃいけない。そして、それ以上に言葉の奇妙な機微を感じた、最後に、君と話せて良かったよ……と言う、そんな宇野の去り際の囁くような声を。 「最後に……?」  その一言が何を指しているのか黛には理解できなかった。引越しでもするのか? 会社を辞めるのか? 果たしてその意味は分からない。だが、今日の並々ならぬ宇野の引き締まった雰囲気から察するに、黛は胸騒ぎを覚えた。当て所のない危惧も感じた。宇野に対するある種の患い。  何かとんでもない事が起こるかもしれない。 第六感の範疇ではあるが、それからの黛の言葉と実行は感情的かつ衝動的だった。 「店長! すみません、ちょっと私……」 〈もうすぐ吉田茂首相の靖国参拝反対のデモ行進が来るはずだ〉  数日後に控えた現職首相の六年ぶりの靖国参拝の政事。それに抗するデモ活動。そのデモの事由は、東京裁判でA級戦犯に指定された軍人などが、靖国神社に合祀されているので参拝そのものが、かつて日本を戦争に巻き込んだ軍国主義者を敬う事ではないか、と批判する示威行為を指している。  宇野はその強訴行為が始まるのを、狭い路地裏にある電柱の側で待っていた。幾人かの通行人にはいるが、宇野の姿はほぼ物陰に潜み誰も注視していなかった。 〈維新の志士が天誅するという時の気持ちと似ているものなのか〉  そんな思いを抱きながらボストンバッグを握る手がガクガクと揺れ汗で滲む。宇野のこめかみには血管が漲り、額や首筋からは尋常ではない汗が出てくる。夏の日中の暑さからではない。 〈分かってはいたが震えと汗が止まらんな〉  宇野は頭を何度か叩くと、意を決したようにボストンバッグを開けた。 中から取り出したのは数本のダイナマイトがガムテープで貼り付けられた腹巻。 宇野は迷いなくすぐにそれを腰に装着した。 〈重くはない〉  勤務工場から楽々と盗む事が出来たダイナマイト。その爆発物の重量にかかる肉体への負担よりも、精神的な葛藤と怯えに宇野は難儀した。足はクラクラと笑い、小刻みに指は痙攣をしている。呼吸する息も次第に激しくなっていく。 〈予想はしていた事だろ〉  そう推し量り己を鼓舞する宇野。 〈もう、やるしかないんだ〉  バン。思い切り震える自身の膝を叩く宇野。 白昼、顔面蒼白して腹にダイナマイトを腹にくくる人間が傍にいる。街路を行く人々少なからずいるが、誰しもそんな構図は浮かんでいるはずもなく、皆、宇野の存在には気づかず歩いて去っていく。 宇野正成がこれから起こそうとする行動は、靖国参拝反対デモ行進をする連中との自爆死であった。 〈俺は右翼でも愛国主義者でもない。だが、アメリカが一方的に裁いた出鱈目な司法によって処刑されていった軍人たちが何故に批判されるか。少なくとも彼らは刑に服しそれを従容として受け入れたにも関わらず、死人に鞭打つとはまさにこのこと。英霊に対しての侮蔑にすぎない。そもそも靖国はそんな理不尽な戦犯の汚名を着せられた帝国軍人だけではなく、朝鮮人兵士だって祀られているんだぞ。それを分かっているのか。戦死者は全てに等しいはずなんだ〉  怒りや憎しみ。宇野は民衆に対する憤りを根拠にして自らのこれからの行為を正当化しようと気分を高めた。亡き兵士たちを慮っての自己犠牲的な行動。その内実は他者を巻き添えにしての破壊、暴力、殺害行為。手前勝手な義憤の精神からの、飛躍的かつ極端な所業とは、宇野自身もある程度許容している。しかし、一本筋のない日本国民。そんな奴らのために靖国神社に祭祀されている人間も含め、大空から散っていた戦友は死んだんじゃない! という気概の方が強かったので、盲滅法(めくらめっぽう)さながら自分の行動を俯瞰するがように捉えていた。 〈お前たちに生きる資格はあるのか? 死んでいった兵士たちは無駄死になってしまったんじゃないか? 銃後の日本国民とは命懸けで守る価値のある者だったのか?〉  英霊の聲(こえ)が聞こえる。亡魂(ぼうこん)の戦友が制裁を望んでいる。  宇野は歯ぎしりしながらより一層に情緒を昂ぶらせていく。正義は我にあり、審判を下すのは我にあり、と半ば狂信的に自分を追い込んで。 〈連中は自分たちの都合よく戦争を終わらせようとしてるんだ。八月十五日の天皇の詔勅が終戦日なのか? 敗戦日だろうに。それともミズーリ号で調印した日こそ日本が無条件降伏した記念日となるのか? 所詮は軍事力の解除と移譲の水位の話の会合だ、あの調印式は。しかるにサンフランシスコ講和条約を結んだ事が平和の証左か? あの片務的な内容の和平で同胞が散ったあの戦争を終末に持っていくなんて言語道断ではないか。こんな中途半端な形で終わらせてたまるか。いや、終わらせてはいけないんだ〉 「さあ、早く来い」  意志もさらに固くして、嘯くように一人言を放つ宇野。 〈覚悟はできた。願わくは勇む気迫を〉  両の拳を力強く握る。もはや力みや無駄な発汗も宇野にとっては、恐怖心を飲み込んだ上での自爆死の活力へと転化し始めた。 〈人間にとってギリギリの自負とはなんだ。一つの筋を貫き通す事ではないのか。それは生死以上に尊い心意気。その信条を裏切る行為は万死に値する〉  自らを半ば錯乱状態に追い込み、呪詛の念すら己に被せるように、眼を血走らせる宇野。歯ぎしりもいまだ止まらず、力み過ぎて唇が僅かに出血している。汗が目に入り込み周りが歪んで見える。  しかし、宇野の目前に浮かんでいる、その湾曲した風景が徐々に形を顕にしてくる。 その面影。  乳母車を押す母親の姿。  駆け走っていく幼子。  仕事がないのか煙管片手にブラブラと暇を持て余す中年。  近所談話を楽しむ婦人たち。  戦時では翼賛政治下で町内会や隣組などによって、自由闊達な意見や行動も一つ間違えば非国民として密告される世相だった。だが、今は違う。防災頭巾を被って逃げる人間もいなければ、竹槍一つで米英撃滅と叫ぶ者もいない。空爆火災に対してのバケツリレーをする予行演習もない。 ただ宇野の瞳に映るのはフレアのスカートを身につけて、坊と笑顔で手をつなぐ母子の風姿(ふうし)。  その場面(シーン)はまさしく穏やかな、ある夏の日の昼下がりだった。  宇野の心が揺れる。宇野が望まない方へと天秤が傾きを見せ始める。 〈ふざけるな! 俺はまだビビっているだけだ。死に対する怖れに理由を求めているだけだ。惑わされるな、俺。俺や特攻して死んでいった連中が望んだものは、日本国民の平和であって……〉  平和?  宇野は顧みる。戦場で命を賭した兵士たちが希求したのは、詰まる所、戦争を終わらせ平和な日常を取り戻すこと。そこには戦いの理念や美学は存在しないし、無邪気さすら覚える生への讃歌を謳いあげること。 〈無辜〉  やにわにそんな言葉が宇野の頭に走る。 〈もしや俺がこれからやろうとする事は罪なき人々を巻き込んでのテロルに過ぎないのか? 死んでいった兵士たちが目的とした不断の平和への裏切り行為になってしまうのか? むしろ俺の行動が英霊たちの命の代償を蹂躙してしまうのではないか?〉  懐疑。それは自爆決行既(すんで)の所で襲ってきた大いなる自分に対する不信だった。死への恐怖心を誤魔化している、という自責の念はない。ごくごく純粋な心許なさであった。 宇野は自身困惑しながらも顔を横に振り、その疑いを邪念ととらえ胸懐を払拭しようとする。  だが、さらに宇野は煩悶する。己の中にある観念に対してではなく、客観的に捉えた今の社会に向かって。 アメリカがもたらした民主主義ってヤツは、果たして不正として日本が受け入れてはならないものなのか、と。そこに妥当性は全くないものか、とも。 米国の占領政策に怪訝を覚える宇野ではあったが、それはむしろあまりにも国民が無邪気にアメリカの国力や主義を礼賛している事に対して違和感のものであって、そのアメリカが押し広げている概念には必ずしも猖獗を意味するものばかりがあるわけではない。つまりは国民のアメリカに対しての態度や、その戦前や戦時の大日本帝国国民の日本に依っていた正義の逆転が戦後に起こった事に対して宇野を苛立たせた。さらに敷衍すれば宇野には時局の極端な「変化」が宇野には理解しがたいものがあった。そんな現在の国民との齟齬が宇野自身を妙な義侠心にからさせた。  そのような疑義を宇野は自身にもたした。 〈皆は変われたが、俺は変われなかっただけ。本来なら、この戦後の平和を享受して、俺も片意地張らず生きろ、というのが正解だったというのか? この逆転した世間の雰囲気こそが常識で中庸であり、俺の考えが邪道であり異常なのか? 俺に非があり、むしろ現世に水を差す存在のような、社会を害するような害虫か異物、異端。この能天気な風潮に乗れない、変われない自分こそが過ちなのか?〉  宇野が抱く不意に我に襲った自己否定の思惑。  しかし、すぐに宇野は額をにゲンコツして構え直す。 〈違う! これは英霊たちを足蹴にしている大衆に対する鉄槌なんだ。八方美人が如く主体性を持たない日本国民への目を覚ますための、平和の享受に何の畏敬の念を散華した兵士たちに送っていない民衆への、過激な一擲(いってき)。真の敵こそは地に足を着けて生きていない世人や俗人だ〉  今一度己の強い信心を確信に昇華するため思い詰める宇野。自分を思い詰めさせる。だが、それでも度重なるように宇野の胸襟に迷いが発生する。 抹消しきれない一念。 〈真の敵、は俺自身じゃないのか?〉  そんな蕩揺(とうよう)する心情が。  出し抜け感のある宇野の精神の転回ではあったが、自分自身からすればその思いは復員してから長い間、心底で燻っていたのは分かっていた。ただその感情に対して忸怩たる思いから曖昧にして気づかないふりをしていた。 雲の上で散っていた戦友に対して、生き残ってしまった自分。 その慚愧の念が積もり積もって、生き方も死に方も迷走して、その自らの憤慨は他者へと向かった。民衆であり大衆であり日本国民へと。 〈馬鹿な……これでは自爆死がまるで人々を巻き込んだ、ド派手な俺の八つ当たりに貶められる。違う、そうじゃない、俺は……〉  不意に小泉が、俺が生きる行為、という台詞を言った時の、年齢には不相応の深い皺の刻んであったその表情を宇野は思い出した。さらに頭によぎるのは家族のこと。自分が義侠心とも憂国心とも欺いて思い込み実行した爆死が、単なるテロ行為として片付けられ、さらには大量殺人犯の家族として世間から睨まれる。 〈そんな代償まで背負って俺は、俺が、いや、ただ勝手に俺自身を満足させるための大仰な自害を断行する、のか?〉  逡巡。躊躇。幾度も胸に手を当てて宇野は反芻するが、強固なまでに否定し難い自身の目的達成の沽券。 〈しかし、俺にはまだ聞こえるんだ。豪雨の明治神宮の中で、水溜りを行進した足音が。俺の中ではあの濡れた靴底の感覚が残っている〉  その時、遠方で囃子の音が聞こえ始めた。デモ行進が宇野の方へ近づいてくる。 〈来た〉  唾を大きく飲み込み、息を取り乱す宇野。一方、まだ体全体は僅かな震えはあるが、汗は不思議と止どまり、特攻する臨戦態勢としては整っていた。 〈もう、やるしかないんだ〉  デモ行進が目前に迫ってくる。周囲の人間はそのデモ行進に目を配り、宇野に気づく様子はない。  宇野はコーデュロイのポケットから先ほど寄った喫茶クラシックで手にしたマッチ箱を取り出し、震える指を押し殺してマッチ棒を箱の側薬(よこぐすり)(ヤスリ部分)で擦る。後はダイナマイトに点火するだけ。 マッチの先端で揺らぐ炎を見つめる宇野。 〈よし!〉  半ばヤケクソ、自暴自棄。だが、もはや宇野にはそんな思いは関係なかった。後は駆けるのみ。デモ行進の先に飛び込むのみ。  だが、その時、走り出そうとした宇野を引き止める腕があった。  右上腕を捕まえられた宇野。  右手に持っていた火の付いたマッチ棒が地面に落ちてしまった。  宇野を捉えていたのは黛であった。 黛は喫茶店の制服の格好のまま、整っていた三つ編みの髪も散り散りに、息をゼエゼエと切らせながら、汗だくの表情を晒して宇野を離さなかった。突然の闖入者に驚いた宇野だったが、その混乱に関わらず何ら黛に問う事もなく、 「離してくれ! 俺は、俺は行かなければ……突っ込まなければいけないんだ!」  事の起こりの情勢は宇野も黛もお互い分かっていない。あくまで突発的。ただお互いが必死の形相。尋常ならざる状況である事は自然と把握している。 前へ進もうとする宇野。だが、黛はより強く宇野の片腕を掴んで、 「駄目です! 駄目なんです!」  もはや黛のその声は言葉というより叫びだった。一方、離してくれ、と宇野は言ってはみたが、実際には若い娘が元は兵隊の青年の力にかなうはずない。その気になれば宇野は黛の制止など振り払えた。だが、敢えて宇野は強引に黛の手を解こうとは思わなかった。ただ宇野自身の心の吐露を聞いて欲しかった。今、内に秘める魂の咆哮を。 「終わっていないんだ、俺には。仲間は、戦友は自分の義務を全うしたというのに俺は、俺はただのらりくらりと生きているだけで。だから俺は死ななきゃならないんだ!」  宇野の言葉の意味など黛は半分も把握していない。だが、黛は間髪いれず熱を込めて返す。 「終わったんです! もう、終わったんです。だから、生きていて下さい。生きていていいんです、あなたは……」  黛はそのまま泣きじゃくって、ゆっくりと崩れ座り落ちてしまった。宇野を掴んだ腕を離さないまま。宇野もその黛の言葉を聞くと放心状態になり、ダイナマイトの腹巻を備えたまま、ズルズルと電柱を背にして座りこけてしまった。弛緩した己の肉体から緊張感で抑えられていた汗が滝のように一気にこぼれ落ちていく。宇野は口を半開きにしながら、闊歩していくデモ行進を横目にする。瞬き一つせず、力の抜け切った気色を見せながら。  やがて宇野の目の前からデモ行進が鳴動して去って行った。その模様を周りの人々は眺めながら共に歩んでいっている為に、宇野や黛の存在を見て取る者は誰もいない。  宇野は呆然自失する中、空を見上げた。太陽が煌々と輝いている。  今日は太陽がやけに照りつけやがる。 光に目も眩む宇野。一方、傍らには既に炭化したマッチ棒。それはただの燃えカス。灰。そして、すぐ側にはずっと俯いたまま静かにすすり泣きをしている黛光葉。宇野は黛の背中を丸め込んで貌(かお)が窺えない泣き姿を一瞥すると、再び陽光輝く青空を見上げた。先ほど吹き出した汗が徐々に乾いていく事に宇野は気づく。  俺の傲慢だったのか。  どうしてかそんな思いに苛まれる宇野。そして、ただ俺は太陽まで飛び立って燃え尽きたかっただけなんだな……と、片や溜飲を下げる気持ちにも包まれた。奇妙な感情の交錯を宇野は覚える。さらに、燃焼しきれなかった思いは、これから一生背負っていくんだろう、と予感にも似た心持ちを課す自分にも察する。  碧空(へきくう)の下、宇野正成の長い夏が終わろうとしていた。                      了
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