[『喫茶店クラシック』にて]

1/1
10人が本棚に入れています
本棚に追加
/5ページ

[『喫茶店クラシック』にて]

 一九五一年(昭和二十六年)九月。  その頃、日本がサンフランシスコ講和条約を結び(発効は翌年から)、日本国民は自国が国際社会に復帰して、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の占領政策からも解放され独立を勝ち得た、と世論が騒ぎ始めていた。戦後としての一つの節目であり、国民はようやく平和や自由が訪れたのだと、にわかに実感し始めた時期でもあった。 〈全面講和ではなく西側との単独講和の条約調印。結局はアメリカにすり寄った結果じゃないか。まだアメリカからの呪縛は解かれてはいない。このままじゃ我が国はアメリカに接収されたままだぞ〉  宇野正成は仕事の帰り際に、今では毎度立ち寄っている喫茶店の中から、窓越しに夕映えとともに眺められる、「サンフランシスコ講和条約調印万歳! 日本の国際社会復帰万歳!」と書き記された国旗とプラカードを掲げる人々の行進をそう苦々しく思っていた。一方、今自分が口に含んでいるコーヒーは、去年から輸入が再開されたコーヒー豆の恩恵だと考えると、日本が国際的に孤立し続けるのも問題があるな、とも覚える自分に、内心、苦笑いを浮かべていた。 〈だが、日本が国際協調路線に進みつつある、と喧伝して世間では盛り上がっているが、戦前に日本が国際連盟から脱退した時は、日本首席全権で派遣された脱退調印の張本人の松岡洋右を、国民は拍手喝采で迎えたと聞いたぞ。当時、子供自分の俺には分からなかったが。日本が国際的に孤立しては大歓迎して、逆に今回、日本が国際的連帯を果たしたら、それはそれで小踊りして国民は喜ぶ。いや、それを言ったら根本として日本国民は対外意識や内政には希薄な理解しかしていなかったのかも知れないな。そう、かつて明治の頃、大日本帝国憲法が制定された時に、お雇いドイツ人医師のベルツが、『民衆はお祭り騒ぎだが、誰も憲法の内容を知らない』と皮肉って言ったが、本当に日本国民は今回の調印式の意味を分かっているのか? 日本国憲法だってGHQ作成の、米国ご都合主義の憲法で、日本側の草案なんてほとんど反映されてないはず。所詮はペリー来航と同じで、アメリカの外圧で日本はその都度うまく躍らせられているに過ぎない。日本人は日本人自身が自分の国を変えてきた、という自覚を持っているのか? 我々が我々の意思で国を堅持し成長を遂げてきた、と。いや、もしそのような気概があったとしても、事実としては歴史上、国際的な真の日本の自立は、様々な国々の干渉によって促されてきて、国内で創発的に起こった事変や事件はなかった。だから日本には過去、革命と呼ばれる歴史的事実が思い当たらない。日本は、日本人というのは風見鶏で一本筋が通っていない風土があり、そのような国民性の存在なのか? 先の大戦も結局は敗北という結果を受けて、またしても我が国は他国からの締め付けを許容する羽目になり、もはや列強国に一つの駒のように好きに左右される小国に貶められたのだと、皆は疑問に思わないのか?〉  宇野はコーヒー・グラスを強く握り、僅かにそれを震わせながら、外のデモ行進の往来を眉間に皺を寄せ、いまだに見続けていた。 〈いかんな。喫茶店でリラックスしているというのに、堅物な面持ちで憂国の士気取りに浸っているのは〉  ズズっと音を鳴らし残り少ないアイスのコーヒーを口に含む宇野は、そのように我に返ると、気持ちを柔らかくするため首と肩を軽く回してみた。 〈それにしても、戦争が終わって六年か……この間は、早い年月だったのか、遅い烏兎(うと)だったのか〉  宇野はコーヒー・グラスを揺らしながら、瞬きも覚えずそのコーヒーの波打つ様子を黙って見つめていた。    一九四一年(昭和十六年)十二月八日(ハワイ時間では十二月七日)。日本海軍のハワイのオアフ島にある真珠湾奇襲攻撃により太平洋戦争が始まった。開戦の詔書はイギリスへの宣戦布告ともなるので、厳密にいうとアメリカの真珠湾攻撃の約二時間前にイギリス領マレー半島に日本陸軍が上陸(マレー作戦)しているので、実際にはマレー半島での日本軍の攻撃が太平洋戦争の嚆矢とも判断できる。だが、結局、日本が戦う相手は米英のみではなく、ソ連やオランダやフランス等とも交戦しなければならず、戦線は苦境を強いられるのは必至であり、大本営でも一応の想定内ではあった。短期決戦。それが日本軍の見出した唯一の勝利への道とした。しかし、まだ日本は中国とも交戦中(日中戦争)の状態。つまり、国際情勢的観点からの日本としては、中国と戦争をしている最中に、さらにまた他国、しかも複数の国々と戦争をするという二重構造を、今回の真珠湾攻撃は意味していた。太平洋戦争は日本にとって重層的な危殆を元々孕んでいたのである。  冷静に考えれば波乱含みの暴挙この上ない失策に思える日本の開戦。だが、それをただ一言、軍の暴走が止まらなかった、と然(さ)もありなんの姿勢で語るには安直すぎる。実際に太平洋戦争開始直前、政府は内閣総理大臣直轄の総力戦研究所という施設を組織し、対米戦における演習(シミュレート)を行い、その結果は「日本必敗」という結果を導き出している。それに多くの政府高官たちの意見も、日米開戦にはギリギリまで反対意見を述べ、天皇陛下は勿論、軍需大臣でもあり時の首相でもあった東條英機ですら、アメリカとの戦争は回避したかった。  然(しか)るにどのようにして日本はそんな半ば自滅的な意図を分かっていながら、太平洋戦争、ひいては第二次世界大戦へ没入する事になったのか。  そのモメントは単純ではない。  人類初の総力戦となった欧州大戦とも呼ばれた第一次世界大戦。一九一四年(大正三年)から始まり当初は早期に戦争は終結すると思われていたが、結局、各国首脳の思惑は外れ終戦までに四年を費やし、一九一八年(大正七年)まで続いた。主戦国はドイツとオーストリア・ハンガリー帝国とブルガリアとオスマン帝国からなる中央同盟国。それに対してイギリスとフランスとロシアの三国協商側を中核とした連合国。その両軍が中心に対峙した訳だが、アメリカや日本など太平洋圏内の国々も連合国側に参加し、戦争の影響の規模としては、ヨーロッパを越え世界レベルまで達していた。結果としては連合国側の勝利に終わったが、その戦争被害は甚大で、戦闘員や非戦闘員を含め第一次世界大戦の死者は二千万人近くに及んだ。  自らが起こしたその戦争の惨劇と脅威に対して各国は、戦後は和平に努めるという反省を鑑み、一九一九年(大正八年)六月二十八日にフランスはヴェルサイユで、ヴェルサイユ条約が戦勝国と敗戦国の間で結ばれ、不戦の平和維持を掲げるヴェルサイユ体制を国際協調の大義として、それが超国家的に始まった。  ヴェルサイユ体制。本来なら欧州大戦の過ちを踏まえたその国際的体制が、人類に対して安寧をもたらすスキームとなるべきものだった。だが、現実の国際外交における政治や経済などはあくまでリアルであった。  ヴェルサイユ体制。それは戦後復興、国際協調、平和維持などのお題目から、国際連盟の発足や不戦条約に繋がるロカルノ条約、ワシントン海軍軍縮から連綿としたロンドン海軍軍縮会議など、主にヴェルサイユ条約の調印式から始まり、一九二十年代から一九三十年代初期までに国際政治秩序体制に係る条約や会議を施した期間をヴェルサイユ体制と呼ぶ。  だが、その内容の実は戦勝国側の徹底した敗戦国側へのリンチであり、特にドイツへの制裁は苛烈を極めた。ドイツはこのヴェルサイユ体制下で事実上、全ての植民地を失い、また戦争の損害賠償請求額も天文学的な数値を要求され、ドイツ国内はスーパーインフレになり経済状態は大混乱。一つの国家が破産する寸前まで追い込まれていった。その思惑としては、近年国際的に力付いてきたドイツが今後列強国として復興していっては困るという、戦勝国側の欧州各国のドイツへの牽制の意味もあった。また、戦勝国側は戦勝国側で、互いの国益確保のために、種々の条約を自国に有利にするために、権謀術数にして手練手管に各国のエゴを剥き出しにして、親和と融和を掲げたヴェルサイユ体制の体(てい)としては国際協調の歩は窺えられなかった。  ヴェルサイユ条約でアメリカ大統領ウッドロー・ウィルソンが提唱した民族自決や十四ヶ条の平和原則、国際連盟の発足(しかし、国際連盟発起の当事国であるアメリカはモンロー主義と呼ばれる、欧州に関わる紛争には干渉しない、という理由をもって国際連盟に参加していない)などはもはや幾星霜。ヴェルサイユ条約が結ばれた当時からきな臭さはあったが、やはりその兆し通りヴェルサイユ体制下の国際秩序の政策は空洞化、形骸化した文句になり、結果的にはむしろ欧米や日本を含むアジア圏に緊張感を無駄に膨らませただけになってしまった。  そして、第二次世界大戦の大きな呼び水となるべき事件が起こる。  一九二九年(昭和四年)十月二十四日にアメリカのウォール街の株式市場で始まった、暗黒の木曜日とも呼ばれる世界大恐慌。  売り注文の殺到で株価が急激に大暴落し、その影響は世界の証券市場にまたたくまに広がり、ジャズ・エイジと呼ばれ消費文化に沸いていた米国の実体経済の好況は、投機という実体のない金融経済におけるバブルの失策によってその栄華は終焉して、アメリカを筆頭に未曾有の大恐慌が世界を襲った。そして、この大恐慌をきっかけに、世界各国の資源格差の現実が浮き彫りになってくる。欧州の植民地支配の進んでいる国々はブロック経済、アメリカはニューディール政策という政策を推進して内需拡大などを促し、この世界的大不況を乗り切ろうとした。だが、大国連中がそのような政策を切り出してきた影響で損害を被ったのは輸出入に頼る、言わば資源を持たない国家。言い換えれば植民地支配が進んでいない国々であった。内需拡大で国の経済危機を乗り切ろうとする事は、輸出をストップ、または莫大な関税をかけ他国から輸入させること。豊富な資源を持ち自給自足できる国であれば、自国内で自らの負担を賄えるが、国の資本や経済が輸入頼りにして輸出頼りの資源の持たざる国は、今までの輸出入の取引相手だった国が鎖国状態になり、一切の外交が出来なくなるので、大不況の回復までにはかなりの経済的ダメージを負った。  社会主義のソ連以外の列強諸国がほぼ世界大恐慌の被害を負った中で、特に資源の持たざる国であったドイツ・イタリア・日本は、資源の持つ国の排他的かつ自国保護主義を優先的な態度として示す事に疑義を醸し出させて、もはや国際互助を明言したヴェルサイユ体制に端を発する国際協調路線など空文化してしまった。むしろ資源を持たざる国に、帝国主義による他国侵略の植民地支配こそが、今後の世界を生き抜く策として、今回の世界大恐慌はまざまざと教訓と証明を与えてしまう形になった。  そして、一九三十年代に入り、日本やドイツやイタリアが次々と国際連盟から脱退。ここに来てヴェルサイユ体制は終焉して、一気に世界的規模で起こる戦争の緊迫感が高まってくる。  だが、日本の思惑としては、一九三一年(昭和六年)に満州(現在の中国東北部)で起こした柳条湖事件を見るように、満州の権益を得るのが植民地支配の拡大の第一の目的で、欧米などの列強と植民地を取り合うという概念は希薄であった。当然ではあるが余計な喧嘩相手は増やしたくない。とりあえず後々に中国、もしくは満蒙国境線で小競り合いが続いているソ連とは戦争になるであろうと想定していた具合であった。  だが、徐々に中国へ侵攻している日本をアメリカが放っておくわけがなかった。第一次世界大戦以降、国際的に俯瞰して見ても軍事力を強めつつある日本を列強国と認識し始めていた米国にとっては、かつては友好国であった日本は既に自らの手を離れた、もしくはコントロールし難くなった脅威の一つに捉えられていた。  そのような情勢の中、アメリカは国際連盟に働きかけ、柳条湖事件をきっかけに勃発した中国との諍いである満州事変の際に日本が満州に傀儡国家として樹立させた満州国の調査に、リットン調査団を派遣させた。満州国とは清朝最後の皇帝であった愛新覚羅溥儀(あいしんかくらふぎ)を日本軍が皇帝として担ぎ上げた、実質的には日本の植民地支配国家。その満州国が国家として認められるものかを調査する事が目的でリットン調査団を当該国へ派遣させた。結論から言えばリットン調査団の報告は、満州事変における日本の諸々の軍事行為から、国際法において合法的かつ論理的にも承諾を得られるような国家ではない、と満州国は判断され国際的に認知されなかった。つまり、一国家としての独立は認められなかった。  その結果に納得が出来なかった日本は、結果報告直後に国際連盟を脱退するのだが、以降の日本政府、いや、日本軍の中国への侵攻は加速度を高めるとともに露骨さを剥き出しにし、遂に一九三七年(昭和十二年)七月七日に中国の国民革命軍と日本軍が北京は盧溝橋で武力衝突(盧溝橋事件)をする。日本と中国の宣戦布告なき戦争である日中戦争の幕開けであった。  日中戦争の始まりから日本は国際的に独裁国家、軍事国家、全体主義国家などのイメージにとらわれるようになり、特に米国が国際世論へ日本へのネガティブ・キャンペーンを展開させる。  既にアメリカやイギリスや中国やオランダによって、ABCD包囲網という日本に対する輸出禁止処置の経済制裁を行っており、輸入に依存する日本は鉄鋼や石油などの資源の貯蔵量は逼迫していた。無論、米英中蘭の日本への中国ないしアジア侵攻に対する示威行為の一つである。だが、日本軍は侵攻を止めなかった。いや、止められなかった。植民地支配こそ列強国ひしめく中で日本が生き残る術であったのだから。  その引くに引けない世界情勢の中の日本が、一九四0年(昭和十五年)の九月にドイツとイタリアに対して日独伊三国同盟が締結され、世界中にさらなる緊張と刺激を走らせる。  そして、ドイツが一九三九(昭和十四年)九月にポーランドへ侵攻して始まった第二次世界大戦。  その渦中での既にイタリアと同盟国となっていたドイツとの三国同盟の締結。三国それぞれが独裁国家の様相を呈し、日独伊の国際的孤立からの奇縁にて手を結んでしまったこの三国同盟締結は、暗に日本の大戦参加を意味し、米国などには明らかに挑発行為として捉えられた。 やがて、一九四一年(昭和十六年)に米国が日本に対日経済制裁の解除の条件として送りつけられたハル・ノート。だが、その内容は日本には受け入れ難く、このハル・ノートが最後通牒と見做され、日本はできれば避けたかったアメリカとの戦争を遂に決断する。  その始まりこそが真珠湾攻撃であり、太平洋戦争の勃発であった。この真珠湾攻撃によって、アメリカ政府は非戦主義を唱えていたが、厭戦ムードだった米国民からの支持を得て、世界の警官の至上命題とばかりに参戦をする。  戦争の呼び名としては満州事変から連綿と続く中国との戦いに合わせ、第二次世界大戦終結の一九四五年(昭和二十年)までをもって十五年戦争とも言われたり、日本が戦争をする大義として、広くアジアが欧米の植民地化からの脱却をはかるために日本がアジアを制圧しリーダーとして国際政治体制を形成する大東亜共栄圏思想を前面に推して、大東亜戦争やアジア・太平洋戦争とも呼び名にされたりしている(太平洋戦争という名称については、詳らかな部分ではあるが、既に一八七九年(明治十二年)にチリがペルーとボリビアに宣戦布告したその戦争も「太平洋戦争」と名付けられていた、という歴史的経緯がある)。  いずれにせよ昭和二十年八月の玉音放送、もしくは同年九月のアメリカの戦艦ミズーリ号で日本が連合国の降伏文書に調印した事によって第二次世界大戦は終了したので、大枠で言えば日本が米中との決戦や東アジアを主戦場にして繰り広げた戦闘を軸にした太平洋戦争も、世界大戦に包括される事は間違いではない。  そして、第二次世界大戦終了後、アメリカとソ連の二大強国を陣頭とした、資本主義・自由主義を謳う西側諸国と、社会主義・共産主義を標榜する東側諸国との対立よる冷戦時代に突入する。 〈タイミングが絶妙だった、いや、悪かった。だから日本国民は平和条約の調印が国際社会の仲間入りを果たしたという理念が強調され、この今の日本の好景気と結びつけてしまって踊る阿呆のように浮かれている様子だが、実際は隣りで起こっている朝鮮戦争による物資提供の特需が、この日本の好況につながっているだけなんだ。言ってしまえば隣国の戦死者の血を啜(すす)って俺たちは金を儲けている。平和条約と今の経済回復を混同しては駄目だ。全く関係ない。むしろ真逆の戦争という行為によって俺たちは潤っているに過ぎない。そう、多くの朝鮮人たちの血によって〉  仕事帰り、心と身体を休めるために立ち寄った喫茶店で、幾度も鯱張った頭をほぐそうと宇野は試みたものの、なかなか外の騒動の残響が内耳に残り、どうにも寛いでコーヒーを嗜められていなかった。注文したアイス・コーヒーの氷は既に溶けきっている。  朝鮮戦争とは一九五0年(昭和ニ十五年)六月二十五日から始まった、朝鮮半島における北朝鮮と韓国との戦争。事実上の国境線である北緯三十八度線を越えて北朝鮮が韓国に侵攻した事がきっかけに勃発した戦争ではあるが、宣戦布告なき戦争であり、大戦後、ソ連とアメリカの主義や主張の反目が鮮明化および具体化し、冷戦状態が顕著となった初の二大国の代理戦争の例といえる。  社会主義を掲げるソ連および中国は北朝鮮をその軸に置き、朝鮮半島の支配を目論見、社会・共産主義陣営として朝鮮という国家を統一する算段だった。だが、社会主義に反するアメリカは当然叛旗の姿勢をとり、資本主義側として韓国の軍事支援に力を注ぐ。ソ連を長とした東側諸国とアメリカを頭とした西側諸国の対立をして冷戦構造というが、それは米ソが直接的に戦争を行わないので冷戦(Cold War)であって、朝鮮戦争では北朝鮮と韓国が直に武力衝突をしているので熱戦(Hot War)になる。冷戦と言うと米ソの睨み合いに終始していると思われがちだが、冷戦構造の中では数多の国々が、米ソの代わりに直接戦争を行って巻き込まれてきた。  結局、後の一九五三年(昭和二十八年)七月二十七日は板門店で北朝鮮と韓国は休戦協定を結び朝鮮戦争は終わった。だが、あくまで休戦であり和平条約や終戦協定の類いではないので、名目上は両国ともまだ戦争状態にある。その朝鮮戦争の期間において在日アメリカ軍が日本に大量物資の買い付けや膨大なサービスを要求して、日本はその特需景気によって戦後復興のための経済を潤わせた。結果、朝鮮戦争は朝鮮人民にとっては奇禍となり、日本国民にとっては奇貨となった。だが、米ソの冷戦構造および朝鮮戦争は日本にとって恩恵だけを授けただけではなかった。アメリカの日本における戦後の占領下での政治および社会政策は、日本の民主化と非軍事化が当初の目的だったのだが、反共の防波堤として日本は「逆コース」と呼ばれる軍事国家時代の日本のような政策に、アメリカが転換させてきた。  逆コースとは文字通り戦時中の日本政府体制下に戻すような、戦争を再び日本に引き起こさせる、というよりは戦争に巻き込まれる状況下を形作られる社会情勢。日本国民自体その逆コースの状態に敏感に反応して憂慮をしていた。 戦後、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)によって占領統治を施された日本に対する目的は、徹底した武力解除と軍事国家としての機能をなくすこと。その為には太平洋戦争に日本が参戦に至った温床となるべく、日本の戦時中および戦前の政治・経済体制に楔を打つこと。GHQが主に推進した占領政策は、軍部の消滅、新憲法の策定、治安維持法の廃止、農地改革、財閥解体、複合企業体制の分割化、労働組合の推奨、教育勅語の撤廃などにおける学制改革……それらの項目は多岐に渡った。そのような、所謂、諸々の旧体制の日本を独裁国家にして軍事国家にした要因と当局は見做し、軍事独裁色が濃かった政策は排除して、新しい米国式の戦後民主主義を日本国民に植え付けさせた。GHQと言えど実質はアメリカの独断占領。米国は日本の非武装化のために新秩序となるべく日本の戦後レジームを形作った。  実際に米国の占領政策は治安国家を目指す日本としては有効に機能していた。敗戦の傷が生々しく残り疲弊しきった日本国民にとっては、戦争から遠ざかる事が一番の安堵であり、日本人の心象として平和こそが希求にあったので、戦後民主主義はそのような世論と風潮が合致した健全な政策に映り、国民は何ら疑う事なく受け入れた。  だが、朝鮮戦争の勃発で顕になった冷戦構造。アメリカは日本に対する非軍事化政策を転換して、日本をアジア圏における反共の砦として、警察予備隊(後の保安隊。さらにそこから発展して自衛隊になる)などを配備して、日本の武力化を漸進的に進めていく。軍隊の復活とまではいかないものの、それは名を変えた軍事力の増強であった。 〈アメリカが日本に平和をもたらしたとクニの連中は思っているが、結局はアメリカの都合の良いように手の平で踊らされているだけなんだ。好き勝手に日本を非軍事化にしたり、逆に戦争の道具にしたり。恐らくその戸惑いと矛盾は多少なりとも国民も感じてはいる。だが、それ以上に善くも悪くも戦後復興にかける今の日本が、国際情勢に対して盲目的になりすぎている。確かに自国の復旧は急務だ。他国からの援助も必要だろう。しかし、戦勝国が元は敵対国であり敗戦国の俺らに、奉仕精神で見返りを顧みず恩恵を授ける訳がない。そう、ギブ・ミー・チョコレートと子供たちが叫び、進駐軍の連中が群がる子供たちに投げていたチョコだって、実際は日本政府がアメリカから買った物資の一つだったんだ。タダでくれた代物ではない。善意やら同情やらの行為じゃなかった。黒塗り教科書だって日本の将来を担う子供たちを、米国自らのご都合主義的な解釈にするための一種の改竄であり検閲だ……アメリカにおいてソ連との間に挟まれた日本。西側諸国と東側諸国。自由・資本主義と社会・共産主義。詰まる所、俺たちは大国間の仕組みの一つにすぎない、ただのコマの一つ〉  頭がほぐれる所か、余計に凝り固まらせる宇野。宇野がコーヒーに視線を向けると、コーヒーの量は全く減っておらず、むしろ氷解した分水かさが上がっていた。 「GI(駐留兵)コーヒーか……チッ!」  宇野はそう独言を吐くと、苦味の薄いアイス・コーヒーを勢いよく口に含んだ、い、会計を済ませて店を早足で出て行った。そんな宇野の後ろ姿に、会計を担当した女給(ウェイトレス)の黛光葉(まゆずみみつは)は、繁々と目線を送っていた。同僚の女給が前掛けのエプロンで手を拭きながら黛の方に近づいて行くと、 「また、あのお客さん来てたわね」 「そうね」 「でも、何で毎回しかめっ面してコーヒーを飲むのかしらね。苦いのが苦手なくせに、格好つけてコーヒーを飲んでいるのかしら?」 「どうなんだろう。何かいつも考え込んでいる様子みたいだけど……凄く思い詰めているようにも見えるのよね」 「あーあ、やだやだ。きっと復員兵で、除隊した後もずっと戦争経験を引きずっていて、日常生活に馴染んでないのよ。そういう人って戦争が終わって六年も経つのにまだいるらしいからね、兵隊さんたちって。そんな人が多いと世相が暗く感じちゃうわ。せっかく戦争が終わったのに。もっと前向きにならなきゃ。まあ、私たちは戦場になんて行ってないから偉そうな事は言えないけどさ。だけど前の戦争だって軍が勝手に起こした戦争でしょ。しかも戦時中にラジオから流れていた情報は嘘ばかりだったって。そう、私たちは騙されていたんだから、こっちの方だって曇った表情しちゃうわよ。被害者意識は一緒だと思わない、光葉?」 「う、うん。まあ、そうかも知れないけど……」  同僚の快活な愚痴を含んだ喋りとは対称的に、黛は口を篭らせながら、三つ編みの髪にそっと指で触れて、か細い声で答えるしかなかった。 黛からすれば相貌は女学生のである自分と五歳も離れていないだろう年頃に見える宇野。だが、黛は宇野のその顔からは、まるで人生の辛酸を舐め尽くしたような、深刻で厳しく老成した雰囲気を感じていた。そんな宇野の表情の残像を思い出すと、黛はフリルが付いた制服を着ている事に、どうしてか幾ばくかの呵責を覚えた。  宇野が店から出る頃には、空には月と宵の明星が映えていた。  つい一年前までは歩くのも困難だった切土気味の道も、盛土で舗装されだいぶ足裏も楽になってきた。復興は確実に進んでいる。宇野は先程までの早足を緩めながらそう思った。事実、宇野の勤め先の工場がある大田区(当時の大森区と蒲田区)は戦争末期の城南空襲によって壊滅的な被災を受けていた。だが、元来、軍需工場の町であったその土地も、戦時の空襲の破壊の後に、朝鮮戦争特需の便益を受け、町工場が林立し新たな工場地区として再起していった。太平洋戦争で工場を失い、朝鮮戦争によって工場を得る。皮肉には聞こえる。だが、宇野はその偽善にも矛盾にも感じる事態も、それは結果論に過ぎないのかも知れない、と先程の憤りも薄れ、ある種の妥協を抱え始めた。それが故に、さらに思索する。何だかんだ考えていた所で、自分は恵まれた状況で終戦を迎えたのだろう、とも。 〈五体満足に俺は家に帰れて、家屋の被災もなかった。家族も誰一人死なず無事に戦時を切り抜けた。それに自営で製鉄所をやっている親父のツテをたどって、鋼材の生産工場勤めに俺はありつけて、母親も紡績工場で繊維製品を作っている。仕事面で言えば順調に稼いでいる。だが、言うなればそれらの仕事はお隣りの朝鮮戦争の物資補給の影響で、俺たちは堅調な生活を維持しているに過ぎない。結局、俺も戦死者の血を啜って儲けている人間に過ぎないか……とは言ってもこの稼ぎのお陰で何とか弟の大学進学資金も出せそうだし、それでいて特に生活が困窮する事もなく過ごせてきている。なのに一体、俺は何に対して憤りを感じているんだ? 俺が世間に対して何を論評する資格があるか。おこがましすぎる。普通に皆と同様にGHQや戦争の特需の恩恵を受けているではないか。いや、そもそも俺にとって、そう、特攻で死にっぱぐれた俺にとって、あの戦争は何だったんだ?〉  宇野正成は学徒動員で招集された兵士であった。本来、学生は二十六歳まで徴兵の猶予があり、戦地へ向かう事はなかった。だが、戦局の悪化によって一九四三年(昭和十八年)十月に政府は在学徴集延期臨時特例を出し、兵員増加のため学生の徴兵延期措置が撤廃される。当時、学生だった宇野も学徒出陣の対象となり、大学生という高学歴者として位置されていたので、海軍の下士官候補生として戦線へ派遣される。終戦後、宇野は軍属から離れ、籍を置いたまま休学していた大学に戻り、そこで卒業を果たして社会人になった。  しかし、戦争が終わっても宇野の中では何の達成感もなく、自分や家族の無事に対してもさほどの感慨がなかった。つまり、割合順調に進んでいる自分たちの終戦後の生活環境に充実感を得ていなかった。今の自分の状況に対しては僥倖(ぎょうこう)を自覚して、運が良かった、とせいぜい納得する程度。  詰まる所、宇野には終戦のリアルが実感できていなかった。太平洋戦争が終わり数年を経た今でも。 戦後時代の大きなうねりは宇野にも皮膚感覚としては捉えていた。サンフランシスコ講和条約や日本国憲法の制定に限らず、戦後初の大規模な贈収賄事件である昭電疑獄、財政に関しては金融引き締め案であるドッジ・ラインの政策、共産党員が疑いをかけられた下山事件や三鷹事件や松川事件などの一連のアプレゲール犯罪、シャウプ勧告による税制の見直し、そして、極東国際軍事裁判(東京裁判)の結審による戦犯の断罪……日本の歴史の大きな転換点を迎えている、という意味では宇野も客観的に頭では理解できていた。新しい日本。そんなフレーズは。だが、宇野の胸襟では何が終わり、何が始まるのかが分かっていなかった。 〈何かが掴みきれていない〉  宇野が自身に問うている、自分にとってあの戦争は何だったのか? という疑念。一考すると深意として捉えられるが、宇野がそう自問自答するのは、ある意味自明の理でもあった。それは宇野自身も朧げに分かっていた。 〈俺には戦う大義がなかった〉  いざ戦時に召集され戦地に向かう時、宇野には何らかの気を張る調子がなかった。周りの人間は鼓舞する者もいれば、別れを慈しむ親族もいた。だが、宇野自身は言うなれば現実感がなく、今まで大学で何となく勉学に励み、将来は教職にでも就ければな、という漠たる思いのままの学徒出陣だった。生死のリアルを知る、というよりも想定外の煩雑な出来事が急襲してきた程度の認識だった。多少はお国のため、銃後で生活する家族のため、それこそ天皇陛下の御身のため、とも意識してはみたが内心では、何か大きな災渦に巻き込まれてしまったようだ、とある種客観的に冷静かつ他人事のように慮る部分の方が大きかった。  だが、それでも戦地に赴き戦う事に対しては、自分のそんな皮相な考えとは別に、重要な責務として捉えていた。与えられた使命は果たす。そんな心構えは持っていた。その思いは海軍に配属されて、実際に戦場に出るようになってからさらに強く意識し始めた。  そして、神風特別攻撃隊。  自らの部隊が「特攻作戦」の編成に加わった時、宇野はその責任感から死を覚悟するまでになった。多くの仲間が大空に爆弾を背負い飛翔していった。二度と戻らぬ離陸。散っていく宿命も双肩に乗せ、酒を酌み交わした友人たちは消えていった。宇野の目の前から。 〈飛んでいった皆は、自らの責務を全うした〉  時折、いまだに死神を空輸する戦闘機の搭乗者たちの、悲壮にも関わらず笑顔を見せて旅立った瞬間の、その様を夢に見る。そして、宇野は真夜中に目を覚ましたその夢の後に、無駄と分かりながら、悪寒混じりの汗を流しつつ自らを疑う。俺は自らの任務をこなしたのか、と。責務を果たしたのか、とも。  不意に宇野は夜空を眺めた。仲間たちが飛び立った蒼き空を仰いでみた。  ただ空は黒色を濃くし、それに対照して煌くばかりの星々が、宇野の穏当でない心情とは別に、華やいでその存在を示していた。数多の星の輝きが散った同士たちの弔いの灯りになるのか……と宇野が思った時、さすがに宇野自身、感傷的になりすぎているな、と一人歩きながら苦笑した。
/5ページ

最初のコメントを投稿しよう!