[サンフランシスコ講和条約]

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[サンフランシスコ講和条約]

 一九五一年。つまり、昭和二十六年。サンフランシスコ講和条約が受諾されたのはこの年の九月。それは国際社会への復帰のメルクマールとはなったが、既にその兆しとなる時事は国内で起きていた。そのエポックとして同年四月にはマッカーサー元帥の連合国軍最高司令官の更迭がなされ日本から出国、そして、やはり同年六月には公職追放令の解除などが挙げられる。それらの出来事は国内の政策の変換を促すとともに、国際社会への進出への嚆矢となるべく一幕でもあった。  ダグラス・マッカーサー元帥の更迭は事実上の解任。後任にはマシュー・リッジウェイ中将が置かれる。マッカーサーの解任の理由としては、やはりここでも朝鮮戦争が関わってくる。マッカーサーは日本の占領政策を執る一方、国連軍総司令官として朝鮮戦争の指揮も任されていたが、本国であるアメリカ政府と朝鮮戦争における軍事的戦略を介して、両者の軋轢が起きていたのが、マッカーサーのGHQ退任の主たる要因とされている。マッカーサーの提案における膠着状態の朝鮮戦争の状況を打破するため国民政府軍(中国国民党の軍隊)の出動の要請、さらには核兵器使用の許可申請など、過激な軍事行動の指針が目立つようになり、米国政府はもとよりアメリカ国民からも批判されるようになり、結果、その対立の末の解任劇。だが、日本国内の信頼は強く、マッカーサーが帰国の際には、約二十万人の日本国民が羽田空港に集まり、その別離を惜しんだ。後日、マッカーサーがアメリカ本国の退任演説で口開いた「老兵は死なず。ただ去るのみ」とは、けだし名言となり日本にも流行した。  一方で六月二十日に政府による公職追放解除者の発表。公職追放とは戦中や戦後間もない頃に、主に反社会的な極右主義者や容共的思想者などを取り締まり処分する政策で、その咎(とが)に問われてしまうと、無理矢理に退官を迫られ、さらには民間企業への再就職も禁止されてしまうという規制。それは公職追放令(公職に関する就業禁止、退職等に関する勅令)として法律化され、政府中枢の多くの人物がその犠牲になった。だが、一九四六年より施行されたその公職追放。朝鮮戦争を筆頭に時局に伴い変わる米国のポジションによって、米国の占領国である日本の公職追放は効力がないと考え直し、アメリカ側が暗に提示した日本の役割である反共の防波堤や、それに付随する逆コースの手段を礎に考えると、軍事関係者にも縛りがかかっているその公職追放に、米国は有益性を見い出せなくなっていた。つまり、この公職追放解除にとっても、基底する部分には朝鮮戦争が関わってくる。そのものズバリ、朝鮮戦争は第二次世界大戦後に冷戦と呼ばれるようになった、アメリカを代表とする西側陣営と、ソ連(現在のロシア)を先頭とする東側陣営における角逐、畢竟するに、両者の対立構造が鮮明化された、初の熱戦の代理戦争であった。だからこそ米国にとってはなり振り構っている状態ではなくなり、平和主義国家の日本ではなく、西側陣営の盾となるべく存在に日本をしようとアメリカは画策し、サンフランシスコ協定でも東側陣営の国も含む全面講和ではなく、西側陣営寄りの片面講和で日本を調印させた。  日本は既に敗戦後間もなくにも関わらず、資本・自由主義と社会・共産主義の列強とのパワーゲームに組み込まれていたのである。  日本がアメリカの都合の良い思惑に巻き込まれていくのは必然的なもので、敗戦国である俺たちは甘受せねばならないのか?  宇野正成は溶接用遮光マスクを片手に、溶接機の半田ゴテを使いながら、鉄から飛び取る火の粉をじっと見つめ、そんな考えに耽っていた。  仕事中。火器を扱う作業ながらも火傷を負わず、無意識の内にも淡々と事をこなすようになったのは、仕事が慣れてきた証左なのか。宇野は行なっている手仕事とは別の思慮にとらわれながらも、澱みなく溶接作業を進める。晩夏になりつつあるとはいえ、常に熱を帯びている工場内の空気は、宇野を含めその他の各作業員の額にも汗を滲ませる。宇野以外の多くの従業員の頭の中は熱気からの苦しみと、早く休憩時間にならないか、という願望がないまぜの状態でひしめいている。だが、宇野はそんな葛藤とは別の、胸襟、自分自身の風波(ふうは)に乱されていた。  日本国民はここまで日和見傾向にあったのか? と。  太平洋戦争の敗戦後の日本の歩み。  戦犯を断じた極東国際軍事裁判(東京裁判)では、連合国側の事後法を採用した一方的な裁きで行われ、また日本国民はGHQが、戦時中に大本営が発表していたラジオ放送や新聞などのメディア機関からの情報が、捏造まみれだという事を明かし、それらの方便もあって日本国民に日本政府の信用を失墜させ、さらには太平洋戦争を起こした悪の立役者は領土拡張政策で暴走した軍部のせいだ、という風潮が根付く事になった。いや、GHQが狡猾にもそのように情報操作をした。つまり、日本国民は日本政府や軍隊に騙され戦争という状況下に置かされた被害者で、太平洋戦争における全責任と担保は日本政府と軍部であったという戦争勃発の一面性を強調し、そこに戦勝国のアメリカが軍部主導の国家を排した、平和を基本理念とした戦後民主主義を啓蒙しに来てくれた、と日本国民に暗にアピールをしたのだった。  かつてペリーが来航して砲艦外交の圧力による開国要求ではあったものの、結果的に文明開化につながり世界列強の仲間入りを果たし、アメリカの助力としてその恩恵を享受したかのように。故に今次の敗戦後、日本が占領されているという感覚は日本人には希薄であった。むしろ日本国民はアメリカが日本国内に介入する事によって、今までの悪しき日本が壊されてアメリカ流の正しいガバメントが再構築される事を期待した。  実際、戦後早急にGHQ、というよりアメリカ本体は日本の政治や経済や軍事や法律などの改革を実行していく。大日本帝国憲法の改正では日本側が策定した憲法案が採用されず、アメリカ主導の九日間で作成された日本国憲法にとってかわり、経済面でも戦後のGHQの指導によってインフレに日本は襲われ、マッチポンプのように後に施策されたドッジ=ラインやシャウプ勧告によって緊縮財政に転じさせられる。結果、インフレからは逃れたものの、その急激な緊縮財政政策の反動で、今度はデフレによる恐慌に陥る。だが、そのデフレ不況も朝鮮戦争による、日本が国連軍へ送る物資やサービスによって内需拡大が起こり、日本経済は好転した。つまり、一九五一年の現時では好況下の日本ではある、と言える。  結果オーライ的な状況なのでどうにも目を眩まされているようだが、俺ら日本国民がアメリカの手のひらで躍らせられているという自覚はないのか、他の人たちには? アメリカに良いように利用されているという感覚はないのか? 結局は今の日本の奇妙に安定された内情は朝鮮戦争の山師的な勃発によるお陰であって、ほとんどがアメリカの指図で二転三転するような、そう、アメリカの傀儡国家に我が国がなりつつあるという危惧が浮かぶのは、俺が神経質で穿ちすぎた考えをしているだけなのか?  おおよそ今自分が行なっている作業とは別個の思考状態で労働に勤しむ宇野は、マスク越しに目前に散る火花を瞬きもせず見つめる。 だが、詰まる所では俺も、アメリカだか朝鮮戦争の恩恵を受けているんだな。こうしてマトモに働けているんだから。  世相に対する違和感を宇野は覚えるものの、その考えが行き着く先は、自分も矛盾した存在だ、という到達点に立つ。結局は俺も同じ穴のムジナか、と自虐的に思いながら。  大日本帝国が鬼畜米英と吠えていた頃は、日本人の黒歴史になりつつあるか。まずはGHQに餌付けされてしまったのが我々にとってのアキレス腱だったな。今にして思えばウマいやり方だ。  宇野は自らへの奇妙な苛立ちや欺瞞を、アメリカ流の占領政策の巧妙さに転嫁してみた。  戦後間もなくの当初は、米国政府は日本への制裁の意味も含めて、食料供給支援を禁止していたのだが、長期の食料不足は占領政策に支障をきたすと判断して、方針を転換。ガリオア資金やエロア資金、ララ物資などの援助金や援助物資などを日本に投入。それらの復興支援もあり学校給食などの提供にありつけた。飢餓状態にあった多くの都市部では大変な扶助になり、日本国民の大分(だいぶ)は反米精神の姿勢から、親米派へと移っていった。 「善くも悪くもアメリカ様か」  防護マスク内で思わず呟いた宇野の一人言。心ここにあらずの台詞ではあったが、密封空間で篭ったその一言とは別に、目前の半田ゴテから発している回禄(かいろく)に対しては、何の問題もなく処理を進めていた。そして、知らぬ間に休憩時間を告げるベル音が工場内に響いた。  日に日に暮れる時間が早くなっていくな。  仕事帰り、黒がかったベージュ色の空の下、宇野は油が転々と染みた作業着を身に纏いながら、カーゴパンツのポケットに手を突っ込んだまま、いつも通りに馴染みの喫茶店へと、夏の終わりが近づいているのを感じながら、足を向けていた。仕事終わりのビール同様に、宇野にとっては仕事終わりのコーヒーが嗜みになっていた。  贅沢は敵だ! の標語ももはや死語ということか。  戦時下であった困難な食糧事情を今さらになって思い出す宇野。節米は当然、サツマイモやカボチャが主役だった、銃後の生活。宇野は主に海軍の戦闘機部隊に身を置いていたので、基地内の食事によってそれほど厳しい食糧環境には置かれていなかったが、内地の困窮した食糧事情は知っていた。だが、それも戦後約六年経過した現在では、都市部の復興に際して飢餓状態はほぼ改善されていた。  結局の所、戦争に俺は身を投じてはいたが、その過程の割には恵まれた状況、というか環境に行き着いてしまったのかも知れないな。  宇野は今の自分の身の振り方の状態を俯瞰して考えてみた。  俺の家族や親族に死傷者はいなかったし、家屋も地元も大して空襲の被害にも遭わなかった。弟は順調に来年の大学受験を進めているし、俺は俺で普通に働いてきている。友人の安否は気になる所で、今の時点では何の音沙汰もないから何とも言えないが、俺の周囲の血縁や地縁に関しては、戦前とほぼ変わらない生活を送れている。運が良かった、と断じてしまえばそれだけだが、いや、そんな思いが根底にあるから周りと妙な温度差を感じているのか?  そう宇野は回顧しつつも、周囲を見渡してみれば、被災に遭って顔色を曇らせている人々はあまり窺えない。サンフランシスコ講和条約によって世界の仲間入りを果たし、平和を享受できる日本になるという希望的観測を抱える民衆の心理もあるだろうが、実際的に都内の戦災被害という点では、宇野の住む周辺では少ない。時折、ラジオや新聞から得る情報では、戦後から約六年を経てもまだ、戦災孤児や傷痍軍人、まだ行き届いていない食糧に対する飢餓、戦後困窮による犯罪多発などの問題を宇野も聞き読みはしている。だが、自分の周りにはそのような難儀は見聞きしない。  それはそれで何も悪い事ではない。  当然のように余計な辛苦を負う事に、宇野は肯定的ではない。ただ素直に、戦火を無事にくぐり抜け、終戦を迎えたのだから良いじゃないか、と自分の状況を飲み込めばいいこと。  だが、一方で宇野は幾度も件(くだん)の懐疑を抱く。  一体、あの戦争は何だったのか?  ほぼ傷を負う事なく自らにとっては終わってしまった太平洋戦争。何らかの物理的な大被害でも遭えば、戦争自体を後悔し憎めたかも知れない。だが、そうはならなかった。現実としては五体満足で帰還し、日常生活を営んでいる。それでも日本を苦しめた鬼畜米英への恨み辛みを膨らましてみれば、戦争への憎悪心も得ていたかも知れないが、アメリカ主導の間接的な占領には疑問を呈してはいるものの、特段、連合国軍に対しての怨みはない。敵なる連合国軍とはいえ、個々でいえば同じ兵士なのだから戦い殺し合うのは仕方ない。そもそもとして宇野は、国粋主義者でも皇国史観なんてものも持ち合わせていない。もちろん逆に左翼的な思想の持ち主などでもない。赤紙招集、学徒出陣、戦争参加、それらを何の悲壮感も、一方で何の高揚感もなく自然と受け取ったのは、ただそれ自体が義務であり作業である、と自覚していたからだ。それはコンベアー方式的に学生がやがて就職するような、社会形成の一般的な流れであり、平時や戦時など区別なく、また、決して特殊な環境に置かれているとは思わぬまま、戦地へと宇野は出向いていった。  そして、終戦を迎えた結果、いまだ答えの出ない、曖昧な煩悶に宇野は苛まれている。脳の何処かにこびり付いている、苦虫を何とか払拭しようとする。恐らくは先の戦争をどのように総括すべきか? と。 だから一杯のコーヒーを飲むかも知れない。  宇野は何やら衒学的かつ哲学的にそう見做す。コーヒーの苦味が一時、そんな意味不明に焦燥し、ざわつく自分の心を白紙にしてくれると。ブラックのコーヒーではあるが。  カラン、コロン、カラン。  宇野が帰宅途中に寄っている馴染みの喫茶店『喫茶クラシック』の扉を開けた時、ドアの上部に設置されている小さなベルが鳴った。この僅かな静響も宇野にとっては心地良い瞬間であった。 戦中はクラシックという言葉が敵性語だという事で、店名が『喫茶古都』と改名されていたが、終戦後は元の店名のクラシックに戻った。戦時のカタカナ言葉狩りは野球などにも及び、ストライクは「よし、一本!」でボールは「ダメ、一本!」等と審判は発していた。  もはや精神論の徹底というよりも、笑い事の類いに聞こえるのは、既に戦争から隔世の感があるのが原因か。  そんな思いを胸に不敵に笑いながら入店する宇野。宇野の入店に察した一人の女給、黛光葉は一瞬目を見開き、 「いらっしゃいませ」  と快活に笑顔で応えた。すぐに黛が宇野の席にお冷を運びに行くと宇野は、 「アイス・コーヒーを一つ」  と素っ気なく黛に目線も合わさず伝えた。黛はそんな宇野の淡白な態度を他所に、 「はい、かしこまりました。いつものアイス・コーヒーですね」  そう明るい声で注文を復唱すると、メニューを抱くように持って、バックへ去って行った。違和感のある居心地を感じた宇野は思わず、踵を返していった黛の後ろ姿に、一瞬、視線を送ったが、少し首を傾げただけでテーブルに置いてあった新聞を手に取った。  その後にも客が店内に続いて入ってきて、黛はそれらの客の注文の対応に追われ、宇野の席にアイス・コーヒーを持ってきたのは黛以外の女給だった。 「どうも」  そう宇野は一言告げると、黙々とアイス・コーヒーをすすった。一方、店内では客の中には黛も含め、注文がてら他の女給と親しげに話をしている男性客が散見でき、静寂の間という感はない。  喫茶店も男女の一つの出会いの場になっているからな。  これまた戦後からの隔世の産物だな、と宇野は思う。  戦前は「カフェー」と呼ばれていた喫茶店。その頃は全国でも八千軒を超える店舗を誇っていたが、戦時なるとその規模は一時期、五十軒にまで縮小する。しかし、戦争が終わると国民酒場なるビアホールとともに、喫茶店も世の中のニーズに応えるように活況を帯び、都市部を中心に再び広く店舗展開していった。飲食店の増加発展は、直に目に見える復興の象徴としても、民衆にとっては明るい希望に映っていた。  そして、戦後は間もない頃、その喫茶店の女給というのは女性の花形の仕事の一つでもあり、青春の謳歌も許される時世になってきた若者にとっては、恋愛という娯楽をごく自然と求めるようになった。その中で喫茶店は若い男女の出会いの場としても、客と店員という間柄を介して機能していた。 だが、そんな時代の趨勢とは関係ない素振りで、まだ若く壮健でもある宇野は、ただ静かに新聞に目を通しながらコーヒーを口に含ませていた。普段通りの薄い苦味のアイス・コーヒーに。  薄味のGIコーヒー。つまりはアメリカン・コーヒーってヤツの薄さか。 薄い。そんな言葉が宇野の頭によぎった時、どうしてか赤紙が家に送られた時の事を思い出した。赤紙とは戦地への召集令状の事で、つまりは、兵士となり参戦せよ、との国からの通達報告の書である。  俺に赤紙が届いた頃は戦局も悪化していて物資不足。赤色の染料すら足りなくて薄い赤色、そう、ピンク色の安っぽい紙の召集令状だったな。  戦争からの日々は徐々に遠のいていっている。それは宇野も自覚している。だが、むしろ戦後復興が進むにつれ、宇野の脳裏に戦争に寄せる思いが募ってきているのも事実だった。実家に戻って間もない頃は家庭の安寧と平和を享受し、戦死もせず五体無事に帰れた事に感謝していた。そして、仕事も決まり生活の基盤も整え始め、一家に銃後ではない普段の日常を手に入れるまでは、宇野自身も人生に邁進していた。  しかし、それら宇野の周りの暮らし、ひいては社会全般の生活環境が安定してきた最近になって、やたらと宇野は日本の戦後について軽い懊悩を抱き始めていた。生活に余裕が出てきて、政治的な事に関心でも持てるようになったからか? と宇野は得心してみるがどうにも腑に落ちない。  俺は憂国の士を気取っているとは思わないし、軍国主義の精神も持ち合わせてはない。戦争が終わったからって、大日本帝国一億総玉砕せねば、なんてさらさら考えちゃいない。政府や軍部による大東亜帝国思想なんかも知った事ではない。単純に戦争が終わって、助かった、という思いしかない。俺はただ義務的に戦争という時代を遂行しただけだ。そして、特に現在の体制に抗う事なく、滔々と今の日本に身を委ねているだけ。実際に現状を慮ってみても、生活上に不平や不満はない。俺自身や家族は運良くウマいこと暮らしていっている。そう、俺が何も心配すべき事なんてないんだ。ただ勝手に俺はハムレットが如く悲劇に浸って、中途半端な悩める知識人の好事家を気取っているだけ。無目的でもやもやした自分でも分からない何かに対して苛立っているだけなんだ……よな。  まだ平和慣れしていないだけだ、と結論づけた宇野は、アイス・コーヒーを喉に通す。氷の溶けた度合いもあってか、苦さの薄味は増しているように感じた。  薄っぺらい感覚、いや、薄っぺらい人間なのか? 突如、奇妙な連想を頭に走らせた宇野。アメリカン・コーヒーの薄さに対して、米国国民を比喩的に思ってそんな駄洒落地味た発想が浮かんだのか。それとも自分自身に対しての戒めとして宇野がよぎらせたのか。 「いかんな」  疲れている。そう心中で一人言に付け加えると、宇野は両腕を上に伸ばして肩をほぐし、大きく一息ついた。その様子をさり気なく見ていた黛は、まだ宇野のお冷が減っていないものの、ウォーターポットを持って宇野の席へ出向き、コップを手に取り水を注いだ。宇野は軽く会釈すると、黛はニコリと微笑んで返して、その場をあとにした。宇野は黛の笑顔を見ながら、日本の世相は順調に進んでいる、と思い一先ず溜飲を下げようとする。  だが、お冷を口にした後に飲んだアイス・コーヒー。その苦味はいっそう薄くなり、どうにも宇野の舌には馴染まずにいた。
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