命の天秤

第1幕 序章(1章) ワシントン大学での日々

ワシントン州 ワシントン大学 2012年5月2日午後1時00分
　ランチを終えた香澄が午後の講義を受けるために教室へ向かうと、ある少女の姿が目に映る。とっさに香澄が声をかけると、少女も同じように挨拶する。
「こんにちは、ジェニー。……今日の授業は講義が中心だから、少し退屈するかもね」
「こんにちは、香澄さん。そ、そうですね。確か今日は心理療法についてのお勉強だと、先週先生が言っていました」
「……前にも言ったけど、私のことは“香澄”って呼んでいいのよ。私たちお友達なのよ」
「えぇ、分かっています。でもあなたは日本人なので、そういう呼び方が良いとと思って……」

　そう答えたのは、彼女と同じ心理学を専攻している1年生のジェニファー・ブラウン。元々大人しい性格である彼女は、マーガレットと同じワシントン州生まれの女子大生。だが生真面目な性格でもあり、“緊張しないで”と香澄から指摘されることも多い。そして同年代にしては背が低く顔立ちにもどこか幼さが残っており、高校生に間違えられることも多々ある。

　そんな話を2人がしているのつかの間、すぐに担当の講師フローラ・S・ハリソンが入室する。同時に、授業開始の時を知らせるチャイムが鳴る。彼女は香澄が在籍しているゼミ講師の妻で、臨床心理士の資格も持っている。その経験や知識を活かしてワシントン大学で講義も行っている教員だ。

　落ち着いた性格と的確なアドバイスすると、構内では人気の先生として注目されている。また20年ほど前に、彼女自身もワシントン大学を卒業している。なので厳密に言うと、生徒たち全員の先輩でもある。

　チャイムが鳴り終わると、教壇に立つフローラは講義を始めていく。生徒たちの準備が整ったことを確認した彼女は、ペンのキャップを外し、講義を開始する。
「本日は『認知療法』という心理療法について、講義を進めていきます。心理職を目指すなら覚えておいて損はないので、しっかりと学んでください」
　前回の授業の復習を交えながら、彼女は『認知療法』について講義する。専門用語が多数出てくることもあり、生徒たちは各自ノートに授業内容を書き込んでいる。