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厳しい冬が終わろうとしている。まだ道の端などには少しだけ雪が残っているが、その雪の下や木々には新しい命が芽吹き始めている。
そんな3月に入ったばかりの事だった。
「奏、ちょっと話があるの」
いつものようにお母さんと夕食を食べていると、急に真剣な表情でお母さんが話しかけてきた。
「うん、どうかしたの?」
そんなお母さんを不思議に思いながらも、少し緊張したように私も返した。
「あのね、落ち着いて聞いてほしいの」
一言一言ゆっくりと話すお母さんから私は目を逸らさず、小さく頷いた。
「お母さんね……再婚しようと思うの」
お母さんの言葉に、私は一瞬言葉を失った。
「再婚って…」
「急にごめんなさい。今まで話していなかったんだけど、お母さんね、前からお付き合いしている人がいるの。その人からこの間正式にプロポーズされて…」
私はお母さんの話を黙って聞いていた。
お母さんの付き合っている人というのは、西園寺勇一。世界的にも大きな力を持っている西園寺財閥の社長である。
1年前、お母さんが現在経営している化粧品会社を立ち上げる時に、西園寺財閥が支援した事がきっかけだったらしい。
自分のお母さんがそんな凄い財閥の社長と付き合っていて、しかも結婚にまで話が進むなんて現実見が全くしない。
私のお父さんは10年前に病気で亡くなった。それからは、ずっとお母さんが仕事をしながら女手1つで私の事を育ててくれた。最初は小さな化粧品会社に勤めていただけで、正直生活するのも大変な時期もあった。それでもお母さんは一生懸命働いて、私には辛い顔を見せないように頑張っていた。今では裕福とまではいかないが、それなりに幸せな生活を送れている。
そして、お母さんが今幸せになろうとしている。その幸せを私に奪う権利は無い。
「…そっか。おめでとう」
私はお母さんに笑顔で言った。お母さんは最初驚いたような表情をしたけど、「ありがとう」と笑ってくれた。
お母さんの幸せを、笑顔で一緒に喜んであげる。
これが、まだ子供である私にとっての精一杯の親孝行なのだ。
それからしばらくしないうちに、勇一さんと食事をするという話になった。勇一さんの事はテレビや雑誌などで何度も見たことはあったが、仕事にとても厳しく、少し怖い印象があった。そんな人と今から会うと思うと、緊張してしまう。
私は薄い緑色のワンピースドレスにベージュのショールを羽織り、鏡の前でおかしなところが無いかチェックをしていると、家のチャイムが鳴った。
「奏、ちょっと出てくれる?」
まだ準備をしているだろうお母さんの声が奥から聞こえ、「はーい」と返事をして玄関に向かった。玄関のドアを開けると、そこには黒い執事服に身を包み、丸い眼鏡をかけた紳士的なおじさんが立っていた。
「松山様でいらっしゃいますね?」
おじさんは深くお辞儀をすると、穏やかな笑顔で話しかけてきた。
「私、西園寺家にお仕えしております、室井と申します。お迎えに上がりました」
「あ、えっと…わざわざありがとうございます」
あまりの丁寧な挨拶に、私もつられて頭を下げた。そこへ、身支度が整ったお母さんがやってきた。お母さんはピンク色のマーメイドラインのロングドレスを着ていた。ワンショルダータイプになっており、右肩には大きな花のコサージュが付いていて、とても華やかだった。
「お待たせしました、室井さん。わざわざありがとうございます」
お母さんと室井さんは顔見知りのようで、お母さんの言葉に室井さんは「とんでもございません」と笑顔で返した。
「それじゃあ、よろしくお願いします」
「かしこまりました。では、こちらへどうぞ」
室井さんは軽く会釈をし、私達を促した。
アパートの前には黒いリムジンが止まっていた。今までリムジンを見たことはあっても乗ることなんてなかった私は、まさか自分がリムジンに乗る日が来るなんて思ってもいなかった。室井さんが後部座席のドアを開けると、私はお母さんに続いてリムジンに乗り込んだ。イスはもちろん革製。そして、白くて肌触りの良い毛皮がイスに敷かれていた。室井さんも運転席に乗り込み、車をゆっくりと走らせた。
出発してから約40分程すると、車はある建物の前で止まった。
室井さんがドアを開けてくれ、私は車を降りて目の前で煌々とライトに照らされている建物を見上げた。そこは、最上階からの景色がとても素敵だと、今話題の西園寺グループ系列のホテルだった。
室井さんに続いて大きなドアをくぐり、私達はその建物の中に入った。上を見上げれば大きなシャンデリアが明るく照らし、床には赤い絨毯が敷かれている。
廊下を奥の方まで進んで行くと、金色に輝く扉のエレベータが三つあった。室井さんがボタンを押すと、すぐに真ん中の扉が開き、私達はエレベータに乗り込んだ。私達が向かったのはこの建物の最上階、35階である。
エレベータを降りて少し廊下を歩くと、突き当たりに白い大きな扉があった。室井さんは金色の取っ手を掴み、扉を開けると、まるでそこは別世界のようだった。壁一面はガラス張りとなっていて外の景色が一望でき、目の前に広がる夜景がとても美しい。店内には柔らかい光が落ち着いた印象を与えてくれて、程よく流れている音楽がまた良いムードを醸し出している。
「いらっしゃいませ」
店内に入ると、すぐに1人のウエイターが傍までやって来た。
「松山です」
「お待ちしておりました。ご案内いたします」
ウエイターは先導するように前を歩いていき、私達はその後を付いて行く。
案内された場所はお店の奥にある部屋。扉には「VIP ROOM」と書かれている。ウエイターが扉をゆっくりと開けると、そこは広い個室となっており、その部屋の奥にはテーブル席があるのみ。
そして、1人の男性がその席に座っていた。
「洋子」
私達に気付くと、黒いタキシードを着て笑顔を向けているその男性はお母さんの名前を呼ぶと、そのままこちらに向かって歩いて来た。
「勇一さん」
お母さんも嬉しそうに男性の名前を呼んだ。彼が再婚相手の西園寺勇一さんである。テレビなどで観ているいつもの厳格なイメージとは裏腹に、穏やかに笑う優しそうな人だった。
「君が奏ちゃんだね?」
勇一さんは笑顔で私に目を向けた。
「あっ、はい。はじめまして。松山奏です」
「はじめまして。西園寺勇一です。とても可愛らしいお嬢さんだね。会えて嬉しいよ」
「あっ…ありがとうございます…」
「これからよろしくね、奏ちゃん」
そう言ってスっと差し出された勇一さんの手を、私は握り返した。勇一さんの手は温かくて、緊張していた私の心を落ち着かせてくれた。
「旦那様、私は坊ちゃんをお迎えに行って参ります」
「ああ、頼んだよ」
室井さんは軽く一礼をすると、再び扉の外に出て行ってしまった。
「坊ちゃん…?」
私は先程の室井さんの言葉にきょとんとしながら、お母さんの顔を見た。
「勇一さんの息子さんよ。奏と同い年の高校3年生」
初めて聞いた言葉に、私は驚きの目をお母さんに向けた。
「あ…そういえば奏にはまだ言ってなかったわね。勇一さんは6年前に離婚しているのよ」
「そうだったんだ」
そういう情報は最初に教えてほしかったと心の中でお母さんに文句を言いつつ、同い年の男の子とこれから家族として一緒に生活していくことに、少し緊張し始めた。
「さぁ、とりあえず私達は先に座っていよう」
勇一さんに促され、私達はテーブル席へと座った。
同時に、再び扉が開く音が聞こえ、視線を扉の方へと向けた。すると、1人の男の子が入ってきた。端正に整った顔立ちと、少し茶色がかったサラサラの髪。黒いスーツを着こなしている彼は、まるでモデルのような出で立ちだった。何より印象的なのは、碧い瞳。どこか冷たい印象もあるが、一瞬で目が離せなくなってしまう程綺麗だった。
そして、私は彼のその瞳をとても懐かしく思えた。
(先…生…)
私の中に遠い記憶が蘇ってきた。
とても大切な思い出。
そして、とても大切な人。
「凌玖、早かったな」
勇一さんの声にハッとして、私は意識を戻した。
「予定が早く終わったので。遅れてしまい申し訳ありません」
彼は私とお母さんに向かい小さく頭を下げると、私の向かい側の席へ座った。
「凌玖、紹介するよ。こちらが松山洋子さん、そしてお嬢さんの奏さんだ」
勇一さんが私達を紹介すると、彼、凌玖君は碧い双眸をこちらに向けた。
「初めまして。西園寺凌玖です」
笑顔で軽く頭を下げながら挨拶をする凌玖君は同い年とは思えない、まるで紳士のようだった。
「初めまして。洋子です」
「あ、奏です。宜しくお願いします」
先に自己紹介をしたお母さんを見て、慌てて私も頭を下げた。
「奏さんは同級生と伺っています。これからどうぞ宜しくお願いします」
そう言って優しく笑う凌玖君に、私は一瞬ドキッと鼓動が跳ねた。
こんなカッコイイ人とこれから一緒に過ごすことになるなんて…。
私はそんなことを思いながら小さく息を吐いた。
その後、今まで食べた事が無い豪華なフランス料理を食べながら、今後の話等をした。
結婚式は「今更ウェディングドレスなんて着ても似合わないでしょ」と笑って話していたお母さんの希望もあり、挙げずに籍だけ入れることにするそうだ。
そして、4月に入ってから西園寺家へ引越しをする。
それに伴い、現在私が通っている高校は遠くなってしまう為、凌玖君も通っている高校へ転校することになる。
そんな話を聞きながら、今まで現実味が無かった再婚話が本当の事なのだと改めて感じた。
食事も終わり、そろそろ帰ろうかと話をしていた時、勇一さんの携帯に着信がかかってきた。どうやら仕事関係の電話らしい。
勇一さんは「すまないね、少し待っていてくれ」と言うと、携帯で話をしながら部屋を出ていった。
お母さんもお手洗いに行くと席を立ち、テーブルには私と凌玖君の2人だけとなってしまった。
「なんだか不思議だよね。これから家族になるなんて」
このまま無言の状態も気まずいと思い、私は凌玖君に話かけた。
「私、最初は不安だったんだ。知らない人と家族になるなんて想像もつかなかったから。でも、勇一さんも優しい人だし、同い年の凌玖君もいてくれるからとても心強いよ」
「心強い…ね」
私の言葉に返ってきたのは、嘲笑うかのような冷たい言葉。
その言葉に、私の思考は一瞬止まってしまった。
――今の言葉は、誰が言ったの?
そう思う程、一瞬誰が話したのか分からなかった。
しかし、どう考えても今聞こえてきた言葉は凌玖君から発せられた言葉だった。まさかと思いつつ凌玖君へ視線を向けると、今までの優しい笑顔からは一変し、腕を組んだ状態で冷たい眼差しを向けていた。
「お前は単純だな。どんな奴かも分からない人間とこれから家族ですって言われて、簡単に受け入れられるなんて」
凌玖君の豹変ぶりに驚きを隠せず、私は言葉を返すことができなかった。
そんな私をよそに、凌玖君は言葉を続けた。
「先に言っておく。俺はこの再婚に異論は無いが、仲良くするつもりも無い。お前も俺に干渉してくるな」
「え…?」
彼の言葉を理解しようと頭が働こうとするが、思うように動かない。私は、一言返すのが精一杯だった。
凌玖君はハァ~と溜め息を吐いて立ち上がると、私に手を伸ばしてきた。その手は私の顎を掴み、顔を上へと向けられた。彼の碧い瞳で至近距離から見つめられ、まるで逃がさないと言われているかのように体が動かなくなってしまった。
「だから、俺に構うなって言ってんだよ。表向きは“家族”を演じてやるが、学校はもちろん家でも必要以上に話しかけたりするな」
その声と射抜くような冷たい瞳に、私は背筋がゾッとした。聞きたいことは色々あったが、彼の雰囲気に私は口を開くことができなかった。
それだけ言うと、凌玖君は手を離し、再び椅子に腰掛けた。それと同時に、勇一さんとお母さんが戻ってきた。
「待たせたね。じゃあそろそろ帰ろうか」
「はい」
勇一さんの言葉に、凌玖君はさっきまでの冷たい雰囲気が嘘のように、最初に会った時と同じような完璧な笑顔で返事をした。
私はただ呆然としていた。
今まで冷たい視線を向けていた彼と、今目の前にいる優しい笑顔を向けている彼が同一人物であることに頭がついていかなかった。
まるで夢でも見ていたかのような、そんな気分だった。
私も席から立ち上がった時、ちょうど私の横を凌玖君が通り過ぎた。
「…さっき言った事、忘れるなよ」
ぼそりと聞こえてきた彼の言葉。
そして、一瞬だったが先程と同じ冷たい視線。
まるで夢ではないと再認識させられたようだった。
私は、これからの生活に一層不安を覚えつつ、先を歩く彼の背中を見つめた。
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