第序話 プロローグ

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 眼前に(そび)えるのは壁ではなかった。  半人半獣。顔が牛で身体は人間。二メートルはあるその生き物は荒々しく鼻息を繰り返している。  その手に握り締めている書類はくしゃくしゃに潰されている。 「ふーッ、ふーッ! このオレに糞みてぇな求人を紹介しやがって!」  牛人――伝説上の怪物――ミノタウロスは声を荒げ、乱暴に書類を床に叩き付けた。  まるでこれが数秒後のお前の姿だ、と言わんばかりの迫力で。 「お、おおお、おち、落ち着いてくだひゃい」 「ふーッ、ふーッ! これが落ち着いて、いられるものか!」  牛人は唾を撒き散らしながら叫んだ。  あまりの怒声に机上の書類やらパソコンが吹き飛び、天井の蛍光灯はちかちかと点滅し、窓ガラスはカタカタと揺れる。それはもう声ではなかった。軽い爆発物並の威力だった。  人間は恐怖に直面するとどうなるのか。まず対象から逃れようと行動したり、心拍数の増加、顔から血の気が引く、震えや発汗などの身体的反応が露わとなる。更にひどい場合、冷静な判断力の欠如、硬直や麻痺といった身体の異変が生じてしまう。  つまりどうなったかというと。  下半身、膀胱が緩み。  ――漏らしたのである! 「ふーッ、ふーッ! どうするつもりだ。どう責任を取る。この怒りをどこにぶつければいい。ここの所長か、それともお前か」 「ぴゃっ!」  ギロリ、と睨まれる。  何か言わないと、と思い口を開くも出てきた言葉は言葉にならない可愛らしい悲鳴のみ。目の前の恐怖に、脳裏に死という文字が過ぎる。  どうしてこんなことになったのだろうか。  確かアルバイトを探していて、拾ったチラシを見て、一〇〇〇万という怪しすぎる時給にまんまとつられ、話を聞きに行ったらそのまま面接に突入し、怪しすぎる職員たちと出会い、まずは試しに見学していて――現在に至る。  後悔していた。  むしろ後悔しかしていない。  身を以って体験した。  これが『後悔先に立たず』だった。
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