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 二人の報告も終わって、西日が低くならないうちにと切り上げた。積もる話もあったのだろうが、二人はこれから式場の予約に行くらしかった。式には一番いい席を用意するから、と言って元気に手を振って帰っていくのを笑顔で見送った。踵を返してふっと息を吐くと、なんだか眩暈がしそうだった。あのおめでとうがどれだけ白々しく私の中に響いていたかなんて、彼女らが知ることなどない。いつか知る日は来るのだろうけど、でもそれは今ではない。そうやって自分を納得させることしかできないでいた。 「ただいまー」  玄関の扉を開けると、私のよりもずっと大きい白のローカットシューズが薄っすらと視界に入る。すぐ左の壁に目をやると、古いお屋敷を背景にした広い庭の絵が迎えてくれた。日本家屋の古いお屋敷は、鬱蒼と茂る木々に囲まれている。その傍らにしゃがみこむのは、やっぱり一人の女の人。おかえり、部屋の奥から聞こえるそれに満足して、もう一度ただいまと返した。今日は孝文が好きな鮭のムニエルを作ることにしていた。  居間に入ると、私はその場で凍り付いたように固まってしまった。いるはずのない人物がこちらを振り返るのが、まるでスローモーションのように映った。 「おかえり、待ってたんだ」  黒いシャツに履き古したジーンズは、どちらも見覚えのあるものだ。眼鏡の奥の、力のある瞳。 「孝文、なんで…」 「玄関の靴、気付かなかった?」  言われて、はっとする。ずっと、私が錯覚させてきたものばかりなのだ、なにもかも。朝起きておはよう、と返ってくる声も、洗濯日和だね、の声も。そこにあって当たり前のシューズも。その姿だけが覚束ないシルエットみたいに部屋に漂っていた存在が、はっきりと目の前にあった。 「なんでいるのかを聞いてるの」     
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