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植物でも育てようか、と思い立つ。 どうせ水が余っているのだから。 長靴のようなブーツを履いて、玄関にたまったビニール傘のなるべく綺麗なものを手に取り、どこまでも続く水たまりの中を二十分歩いてホームセンターへ行く。ここが家から一番近いのだ。入り口近くの園芸コーナーにはナスやトマト、葉ネギの苗が並ぶ。なんだか昔近所にあった畑の色を思い出す。青々と育っていた野菜。 あの農家の手間を思うと、なんだかハードルが高い気がする。初心者の私に家庭菜園を管理できる気はしない。 都合のいいようだけれど、できれば片手間で育ってくれるものがいい。雑草のように。すくすくと。 種のコーナーにはハーブの袋が並ぶ。イタリアンパセリ、クレソン、カモミール。名前くらいは知っている。このあたりが妥当かな。 せっかくなら使えるものがいい。棚を目で追っていく。タイム、ローズマリー、バジル。 バジル。そういえば職場の後輩が、実家で犬を飼っていると言っていた。名前はバジルだと。なんだっけ、小さいミニチュアダックスフンド。そのことを思い出したら急にバジルが親しげに見えてきた。後輩のことも小さいミニチュアダックスフンドのこともバジルのことも知らないけれど、バジルにしよう。もし芽が出なかったらご縁がなかったということだ。 土と植木鉢も一緒に買い、ついでにスーパーマーケットでオリーブオイルとトマトとチーズとバジルを買って帰る。うまくいけばゆくゆく家で食べるカプレーゼのバジルは家でとれたものになるわけだ。 帰り道は少し雨が増えていて、踝くらいの深さになっている。交通量はいつもより少し多い。家に急ぐのか、残りの仕事を片付けているのか。愛しい人の家に向かう車もあるのだろうか。 雨の準備らしく、ぱんぱんのスーパーの袋を両手に持った人も見かける。 私もバジルたちとトマトたちの袋を腕からぶら下げて、雨合羽を着て帰った小学校の頃のように、雨を蹴りながら歩く。 少し、いい気分だ。 ベランダで、種の裏書きに習って買ってきた植木鉢に土を入れ、種を蒔く。水の程度がわからない。下に穴があいているから、目一杯やれば大丈夫なのだろうか。どうか根腐りしませんようにと思いながら、底からベランダに流れる、土を含んで筋になった水を確認した。 部屋に入り手を洗い、少しの高揚感と共に電話を手に取り、 いつもの番号を押す。赤い通話終了ボタンを押す。
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