雨傘のない雨の日

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「読んでみたいです」 「やだ」 短い返事。 「じゃあ、名前、教えて下さい」 「深江(ふかえ)あずね」 あずね、さん? 「変わった名前だって思っただろ」 図星。 「いいよ、よく言われる。深江は、深いに入江の江。あずねは、平仮名」 「ペンネーム、ですか?」 「は、本名だよ」 ケタケタと笑いだした。 「ペンネームは教えない。自力で見つけてみな」 「いくらなんでも無理ですよ」 読むなってこと?小説家だって教えてくれたくせに。 数段の階段を上る。 マンションのエントランス。 ようやく、屋根の下。 「家着いたら、風呂入るとか、着替えるとか、髪乾かすとかしなよ。そのままだと風邪引く」 横を見れば、お姉さんのポニーテールは結構ぬれてしまって、水が滴っている。 僕も髪はびしょびしょになっているし、靴も水が入ってしまっていた。べったりと、服が肌にまとわりつく。 「ま、雨はそんなに簡単にはやまないけどさ、ぬれたらぬれたで、乾かして、あったかくすれば、風邪はひかねーよ」 どういう意味、というか、どこまで含んだ言葉なんだろう。多分、意味は広い。本当に、この人は詩人だ。 「深江さんも」 名前を読んでみたら、ちょっとびっくりしたような顔をされた。 「ああ。傘持ってなくて悪かったね」 そんなことない。 エレベーターが降りてくる。 お姉さんは五階、僕は六階のボタンを押した。 ふわり、と上昇感。 「あんた、名前は?」 「大田(おおた)和樹(かずき)です。()きな()んぼに、()に樹木の()、です」 「覚えとくよ」 扉が開く。五階だ。 「じゃあ」 「はい。ありがとうございました」 エレベーターを降りるお姉さんが笑った。完全にぬれきった姿なのに、不思議とカッコよかった。 扉が閉まる。 エレベーターは、六階に昇る。
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