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 「時雨」とは、紫雨に対してもう一つ付けられながら、結局使われなかった名前だ。その名を使う時期がないまま、紫雨は山科燕雨になり、忘れ去られてしまった。  時雨は心から楽しそうに、時雨を闇に縛り付ける翼を背に、身動きができない態勢のままで続けた。 「オレの情報まで、無理に視るのはやめろよ。アンタにオレのことがわかるのは、オレからたった今、必死に汲み上げてるんだよ、アンタは」 「……それが何か、問題があるのか?」 「大ありだから言う。せっかくオレが、アンタのために、都合の悪い運命を変えた世界を造ったのに……アンタがオレを通じて記憶を戻せば、元の世界に戻らないといけなくなるよ?」  一応、真摯に忠告してくる声に、少し燕雨の凝視が緩んでしまった。  どうやら時雨の姿を、はっきり視ようとすればするほど、何かがまた狂ってしまうらしい。それが何であるのかわからないまま、突き進むのは確かに無謀だった。 「俺のために、造った世界って……どういうことなんだ?」 「気に入らないか? アヤもケイも死んでないし、アンタの中にオレ――黒くて悪い翼もいない。今のアンタは、水葵にまで力を貸してもらえて、アンタが望む通りの強い化け物になれた、最善に近い世界なのに」  時雨の記憶を、直接共有するのではなく、言葉だけで伝えられれば、そういうことであるらしい。この状態が当たり前だった「燕雨」にはぴんと来ないが、ずっと違和感を訴えていた「彼」には、やっと腑に落ちる内容の気がした。  「彼」にとっては、それは有り得ず、泣き出してしまいそうな世界だった。それを「記憶」でなく「情報」だけに留めて、燕雨は時雨と対峙を続ける。
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