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 「彼」の苦渋と、「時雨」の嘲笑をどちらも感じて、燕雨は慎重に、ゆっくりと言葉を選ぶ。そうしなければ、とても危ういバランスで成り立っているこの場が、何処かの方向に振り切られるのだろう。  時雨の言葉を借りれば、違う世界に変わってしまう。何処の軌道に乗るべきなのかと、おそらくたゆたっているのがこの暗闇なのだ。  どうしてこんなことになったのだろう。わからないのはただ、その一点だけだった。 「俺にはこうしたいとか、そんなにないし……比べようにも、違う世界の記憶なんてないけど」  誰かが何か、特別なことを望んだわけではない。平和な世界で、ただ普通の日常を過ごしただけなのに、何故時雨は介入を始めたのだろう。 「弄んでいるなら、やめろ。……それしか、思えない」  燕雨のためだと、それが皮肉であることくらい、直観がなくてもさすがにわかる。  燕雨が一番知りたかったことに関して、時雨は何も明かしていない。直観で察しているはずなのに、不誠実な声ばかりが返ってくる。 「アンタはここで、猫羽を見守り終えて、後は鶫と幸せになればいい。これ以上、いったい何の不満があるんだ?」 「…………」  このまま現実に戻り、故郷に帰れと時雨は言う。それでは燕雨が納得できないことをわかっているはずなのに、時雨から次の一言が出るまでに、それからしばらく沈黙の時間が必要だった。  黙って時雨を見続ける燕雨に、ようやく時雨は、真顔になって無機質な声を出した。 「……汐音もきっと……そう望むよ?」  燕雨がずっと待っていた、大きな欠落の答。  水気の無かった谷空木に、ここで鮮やかな桃色が戻っていた。
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