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 覚悟を決めて目を閉じると、次に目を開けた時には、何もなかったように一瞬で暗闇が消え去っていた。  同時に、燕雨が向いていた方にも、何もなくなっていた。 「……あれ。何かなかったっけ……あそこ……」  料理なんて一度もしていない台所は、調理用具もなく、当然ながら食器もない。  何も置いていないのは当たり前だ。そう思いながら、大切なものが本当になくなってしまった気がして、燕雨の胸がじわりと痛んだ。  いつの間に時間が過ぎていたのか、ぼけっとしていると、水葵が高校から帰ってきていた。 「……は? 燕雨、どうして、家にいるのですか?」 「え。……今、何時?」  高校が終わる頃合いというと、いつもは燕雨が仕事に行っている時間だ。  起床時間にしても何にしても、さぼりに厳しい水葵の機嫌が、一気に悪くなってしまった。 「まさかあれから、私がずっと苦痛な授業を受けている中、燕雨はぬくぬくと寝ていたとでもいうのですか……?」  立ちっぱなしだったので、ぬくぬくのつもりはないが、眠っていたと言われると否定はできない。水葵に気を取り直してもらおうと思えば、凝りがちな人形の肩もみでもしてやらないといけない。  それでも燕雨には、とりあえず今すぐに、行かなければいけない場所があった。 「……ごめん。ちょっと、元の世界、帰ってくる」 「――は?」  怒りながら唖然としている水葵に、くるりと背を向けると、黒い上着とチョーカーをつけたまま、燕雨はさっさとアパートを後にした。  目指すは燕雨をこの世界に招いた、橘診療所――数多の世界と時空が不安定に重なる、神と悪魔の交差点だった。
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