プロローグ

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プロローグ

高貴なのは百合の香り。 ジャスミンは少し野性的。 ほのかに甘い水仙。 でも、なにより心地よいのは、薔薇(ばら)の香り。 記憶の底をくすぐるような、華やいだあの香りをかぐと、心がさわぐ。 浮かぶのは、ありし日の幻影? それとも、とっくになくしたはずの未来か。 何もかも失ってから、もう何年たつのだろう? それすらも、わからない。 過去は亡霊のように、遠く、近く、つねにかたわらによりそい、彼の心を呪縛する。 彼には“今”を生きられない。 あの日、彼の心は死んだのだから。 生きているのは、過去の残像。幻の自分。 失ったものの重みに、残されたわずかの“今”もくずれゆく。彼が一歩、動きだすだけで、何かが失われていく。 空虚ーー ただ薔薇の香りだけが、彼の胸に、そっと何かをささやいていく。 からっぽの心に、ほのかなぬくもりと、身を切るような深い痛みを。 かつて、彼はすべてを持っていた。 その残酷なまでの幸福の記憶が、彼をさいなむ。 薔薇の香りが彼を狂わせる。 もう一度、かえりたいと、彼は願う。 幸福な、あの“時”へ。 もう一度……。
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