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ことのはじまり
人前に出ることに慣れていないわけではなかった。むしろ慣れているというべきなのかもしれないが、大量のフラッシュには目を細めた。
そのくせ、彼らが見ているのは一回り小さくなった肩幅や目の下にできたクマではない。珍しいスーツ姿、ナチュラルメイク、短く切りそろえられた髪の毛なのだ。
テーブルの上に置かれたハンドマイクのスイッチを入れて、ようやく肩の力が抜けた。諦めがついたとか、緊張がほぐれたというわけではない。この勝負に勝てばすべてが終わりで、私はそれに勝ったのだと確信したから。
「本日は私のためにお集まりいただき、まことにありがとうございます。私、如月哀花は」
本日をもって競技人生を終えることをお知らせいたします。
ざわめきが起こったのは、昨シーズン終盤に進退の質問を濁していたからだろうか。
いつ決断されたんでしょう?
このオフの間です。
理由は?
気持ちが追いつかなくなった、といえば甘えでしょうか。
年齢的にはもう一度オリンピックが巡ってくると思われますが?
そうですね。
惜しくはありませんか?
私は惜しいとは思っていません。
淡々と答えていくのを、渋い顔で記録していく。涙や笑顔が欲しいのだろう。
でも、今日はくれてやるものか。
いちばん記憶に残っている試合は?
はじめて代表に選ばれた試合ですね。散々だったので、笑い話にしかなりませんけど。
復帰の可能性は?
今やめると言ったところなので、それは現役の選手達に対して失礼だと思います。幸いなことに若い選手達が優秀なので、私が戻ったところで変化はないかと。
やはりご自身と重ねるところも?
そうですね。自分の力以上のものを勝手に期待されているのは、かわいそうだなと思いますね。
誰も気づかない。でももう、そんなことで涙する時は過ぎた。
「今後のことを伺っても?」
「そうですね。『一般人』になろうと思っています。というか...この会見が終わったところで」
競技者の如月哀花は死にます。
この日いちばん、フラッシュを浴びた。下がらない手には、見ないふりをした。
「競技・スポーツ・メディアとお別れして、『一般人』の如月哀花に生まれ変わります」
ファンの方はさぞ悲しまれると思いますが?
そう思ってくれる方がいるだけで幸せです。
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