ことのはじまり

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連盟は、今後の役員候補として考えているという報道もありますが? 私のため、現役選手のために尽力してくださっていることに感謝しています。競技の普及も大きな仕事だとわかってはいますけど、私には政治はできませんので。 ということは? 所属会社にこのまま勤務させていただくことになっています。 「すみません、あとひとつ」 会見場を出るまで、あと数メートル。もうすでに私に光は当たっていなかった。 だから、振り切ってしまえばよかったのに。 「結婚のご予定は?」 立ち止まっていたせいで、また目の前が明るくなった。 「相手がいないので、そんな予定はありません」 笑っているつもりなんてなかったのに、翌日のスポーツ紙面では、私は口元を緩めて微笑んでいた。 『笑顔の女王 最後も笑って』 人のこと、なにも知らないくせに。 「せっかく引退を認めてやったというのに」 「その節はありがとうございました」 これ見よがしに溜息を吐かれた。その理由はもっともらしく見えるが、すべて本人が勝手に期待していたことである。 「指導者になるつもりもなければ、解説者になるつもりも、まったくなく」 「はい」 「うちのイメージキャラクターもやめる、と」 「申し訳ございません」 私の声が震えもしないのが、余計に腹立たしく感じられるようだ。 「なにも、テレビに出ろとは言っていない」 あんな下品なものと吐き捨てたが、大抵のものはその『下品なもの』で名を上げていく。 「はい」 「でもきみはうちの社員だ」 「しかし私は『一般人』になりましたので」 マイナー競技を支援する大企業。そのイメージに、よほど甘い蜜を吸わせてもらったらしい。 「...心変わりをいつでも待ってるよ」 「ありがとうございます」 絶対ないでしょうけど。 「あともうひとつ、忠告しておいてあげよう」 「何でしょう」 昼休みの喧噪は、ここまで届いてこない。腹が減った。 「金のかかるスポーツをさせて、大学まで行かせてくださったご両親に、しっかり感謝しておくんだね」 なあに、アスリートなら当たり前のことだろうがね。 『アスリート』を強調してきたのには、気づかないふりをする。 「ありがとうございます。善処します」 まだ言い足りなさそうだったが、そのまま頭を下げて社長室を後にした。
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