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5月7日
目を覚ますとそこは見慣れた部屋だった。畳の上に乱雑に詰まれた本と司法試験の問題集。何日も洗ってない枕カバーのにおいや、いすの背にかけてある昨日もおそらくおとといも穿いていた膝のところの色が薄くなってしまっているベージュのチノパンツ。
そこはどうみても五年前に自分が住んでいた東京は巣鴨の叔母の家だ。
だがおかしい。俺は飛ぶ鳥を落とす勢いの新興IT企業の共同経営者で、夕べは若手テレビ女優として人気が出始めた女友達と銀座で何軒か飲み歩いた後、彼女にもう一軒行こうとせがまれて歩道を二人でじゃれあいながら千鳥足で歩いていたはずだ。
そこからの記憶が残念ながらあまりない。
「まさか、酔った勢いで叔母の家に帰って来てしまったのだろうか」
ふと何気なく壁に掛けてある、最近にしては珍しい、日が変わるたびに毎日紙を一枚破っていく類のカレンダーが見えた。緑色の大きい数字で日付が書いてある。叔母が職場からもらってくるものだが、学生時代にはこのカレンダーをめくるのが面倒くさくて何日も、時には何ヶ月も放っておいたものだ。
「何だって!」
俺はカレンダーを見た後、布団から跳ね起きた。
「2002年5月3日」
部屋を見渡して愕然とした。枕元に置いてある中学のときからもう10年以上は使っている安っぽい丸型の目覚まし時計の音が妙に規則的にこきこきと音をたてる。
「そんな馬鹿な…」
そのとき、部屋の階下のほうから声がした。
「じゃあ、行って来るわね」それは五年前に毎朝聞いていた保険外交員の叔母が出勤するときの声だった。
俺は混乱した。
それと同時に思い出した。叔母が出かけるときはたいてい俺はのんびり洗面所で歯を磨いたりトイレに入ったりしていたはずだ。
あわてて自分の身なりを確かめるように見てみると、夕べ飲み歩いていたときの派手なイタリアンスーツ、指には指輪、耳にはピアスをつけ、まぎれもなく、今をときめくIT企業共同経営者の身なりをしている。布団の中にいたのにどういうわけか靴も履いたままなのがおかしかった。あわててそれを脱いで左手に持ち、俺は部屋の引き戸を開けて階段の踊り場に音をたてないようにそうっと出てみた。
すると一階の玄関横のトイレの方から鼻歌が聞こえる。機嫌がいいときに俺が歌っていた宇多田ヒカルの『光』だ。
「まさか、「俺」がトイレの中にいるのか?」
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