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飼い犬がいなくなった。ポチはよく脱走する。僕に懐いていなくはないと思っているのだが、何せあいつは聊かやんちゃに過ぎる。
それにしてもまあこんな、豪雨の日に決行したものだ。水浴びが好きなのはわからなくもない。風呂では満足できなくなったのだろうか。
僕は傘と、ポチを連れ帰るリードを手に家を出た。
外は見上げるまでもなく重苦しくて、鬱蒼としている。色がない。視界全部が淀みの中にある。
煤けた陰気な雲で、空は狭まり窮屈だった。ごうごう唸る雨だって、どぶのようで汚らしくてたまらなかった。
暗澹が垂れて落ちるような天気だ。湿気った風が髪や皮膚に纏わりつく。穏やかで静寂にも似た沈鬱さが、地面を跳ねた雨水で汚れる僕の足元に、ただ引き摺られていた。
傘を叩く音がいやに騒々しい。ポチと名前を呼んだところで掻き消えるほどの声だったし、掻き消すほどの雨音だった。
僕は小さな住宅街を右に一つ、曲がる。同じ造りの家の、同じ造りの路が広がる。家々は表札の位置まで同じだ。ひたすらコピーして、ひたすらペーストしただけの、そんな世界に僕は住んでいる。今度は左に一つ、曲がった。
ポチがいた。死体をぺろぺろと舐めていた。それはおそらく老人だったように見える。地面にうつ伏せになっている。道路が一面、真っ赤に染まっていた。一目で、死体だとわかった。
その傍に、女性が一人ぽつねんと立っている。
僕をすっと見て、「人を、殺してしまったんです」と、静かな声で言った。
それはそうだろう、と思った。女性の纏っている水色の、薄手のワンピースは赤黒いような紫に変わっている。その手は、老人を殺した手は、
白く綺麗だ。
雨が洗い流したんだ。僕はそう確信した。
「そうですか」と、僕は言った。声は、震えていなかった。
ポチが僕を見て駆け寄ってくる。お前、存外ばかなんだなぁ。死体を舐めるなんて。茶色の体毛が黒く汚れているよ。
首輪にリードを繋いだ。僕は死体に背を向けて、家に帰ることにした。地面はまだ、血の色をしている。
この豪雨でも、洗い流すには時間がかかりそうだった。
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