集結地、田穂乃平。

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集結地、田穂乃平。

   明応二年 (西暦1492年)   六月二十二日 (5月28日)  びゅ~びゅ~。びゅ~びゅ~。  広やかな青々とした草原(くさはら)を、()めるように空気の塊が幾つも幾つも駆け抜けていく。 「うむ。まことに(つよ)き風が耳に当たり、頭の中で小鐘の()が静かに鳴り響いておるようで愉しいわ♪」   (みやび)やかに雲海(うんかい)(かた)どれた打掛(うちかけ)と、色鮮やかな小鳥と唐花紋様(からはなもんよう)があしらわれた小袖(こそで)の衣装を身に(まと)った美しき娘子(むすめご)が、先刻手元に届けられた文に添えられた稚拙(ちせつ)な歌をイヤイヤながら詠み、そして半ばあきれながら(そで)にくしゃくしゃとしまい込みつつ、それよりも遥かに崇高で自然(しねん)の風味に富んだ風の歌に耳を傾ける方が(こと)(ほか)、心に平安を与えてくれる。 「それにしてもあやつ。如何(いか)にも寒げじゃのう」  ここは彼女が治める領地の南南東の(はじ)に位置する、【田穂乃平(たほのたいら)】と云う名の草だけ平地。  そこの真ん中の小さな丘の頂きに立ち、何するでもなくただ青空を眺めては背伸びしている平伏姿の者を本陣の幕の外から眺め、誰が聞くでもなく一人呟(つぶや)いた。  平服は、ひょろい体格の背ばかりが異様に高い棒切れのような武士(もののふ)で、女子(おなご)としても背が低い方のこの娘は立ったまま彼と会話をするのは一苦労で、足首が痛くなるほどに背伸びせねばならずいつも困ってしまうのだ。  しかも此の者が身に着けている衣服といえば見れば見る程ツンツルテンで、細い手首や足首の肌が見えてしまっており、彼女はその姿を見るにつけ、真面目な話をしておるのに思わず笑い出してしまいそうになるのだから更に困ってしまう。 《なんとも、心地よい風にございまする》  ひょん!と、突如この丘に突き刺さった長い弓矢みたいに、身体を風に(ゆだ)ねてゆらゆら揺れているひょろ侍は、目線をすっと上げ遥か遠くの地に思いを馳せる風情で望み見ている様子をのぞかせて、  ぶるっ。  陽光煙る広やかな草地のただ中とはいえ、初夏とは思えぬ山颪(やまおろし)の冷たき風に身震いしたひょろ侍は、心地よさとは無縁な肌寒さに耐える様子を見せ、スッと片膝を付き身体を小刻みに揺らしながら彼女を出迎えた。  娘子はその堪らぬ可笑しさに耐えかね、ふしし♪と、つい含み笑った。 《ご覧を、彼の者が参りました》  ひょろ侍が右手で指示(さししめ)た方向から、ゆらゆらと陽炎(かげろう)じみた気が草原から立ち昇っているのが見えた。  陽炎の幻影はやがて黒々とした揃いの具足を身に付けた軍勢の姿となり、それが神鹿氏(かぬかうじ)の者共であることが旗指物(はたさしもの)で判明し、妖気を孕んだ悪鬼の如く粛々(しゅくしゅく)此方(こちら)に向けて進軍しているのが陽炎の中でハッキリしてきた。 「ほうほう、来よる来よる♪それにしても【ひょんひょろ】よ。国主さまに叛乱を起こした東の三家の治めたる領地は、高き山々に囲まれた狭き盆地ばかりじゃ。此処(ここ)よりもなお寒かろうのう」 《左様にござりまするな》  ひょろひょろした武士【ひょんひょろ】は、主の言葉に白い息を伴って応じた。 《ところで、あの件は如何(いかが)なされましょうや?》  主である娘子に伺いを立てたひょんひょろは、ぶるっと、またひとつ身体を震わせ自らの肩をかき抱いた。  ふしし♪  そんなに寒ければ斯様(かよう)な場所にわざわざ立たなければよいものを。と、娘は思わずニヤけてしまったが、ハッとして気を取り直し、こやつの問いに答えてやってそれを誤魔化す事とした。 「深志(ふかし)のところの二番目の(せがれ)をの、事もあろうに“わらわの夫にする企み”のことかの?それとも国主(くにぬし)様の権威を(もち)いて厄介な(はかりごと)をしている〝アレ〟の事かの、もしやそれとも…?」 《前者についてでございまする。御社(おんやしろ)さま》 「左様か、これまではのう、弐の家老の爺様が奴らの申し出をのらりくらりかわして適当にあしらってくれておったがの、流石に向こうも(しび)れを切らしたらしくてのう。…誠に(もっ)て遺憾で迷惑な話もあったものじゃ」 《流石に甚三郎様の手にも余りましたか。それで此度(こたび)の出陣でございまするか》 「まあ~の。わらわとしては婚姻に前向きではないがそれを悟られては困るからの、今こちらに深志の(やいば)を向けられては困るし、(いくさ)の約定を果たすことで深志とは昵懇(じっこん)であるフリはしておくに越したことはないから……のう♪」 《そこで御社様に忠義厚き神鹿殿(かぬかどの)をお使いになる。……で、ありまするか》  不意に、娘の肢体を影が(おお)い辺りまで暗くなる。  ひょんひょろがヒョイと立ち上がり高みから彼女を覗き込んだせいであった。 「なっ…なんぞ!」  娘は思わず後ろにたじろいだ。 《いやはやなんとも、いつもながら御社さまは喰えぬ御方(おなた)にございますれば》 「放っておけ!それよりもじゃ、お主の方はどうなっておるのじゃ?」  動揺が心に波打つのを娘は力任せに抑え込み、出来得る限り表情は平穏を装うよう彼女は務める。 《万事抜(ばんじぬ)かりなく、手筈通(てはずどお)り整うてございますれば》  娘はそれを聞くなり、下腹に力を込めた。 「ひょんひょろ!」  身体が異様にひょろ高い武士の渾名(あだな)を、娘子は力いっぱい声を張って叫んでみた。  ひょんひょろは(うやうや)しく(かしず)いた。  もう一度彼女は叫んでみる。 「ひょんひょろ!」 《はっ》 「委細(いさい)其方(そなた)に任せた!」 《(かしこ)まってございまする》  それを聞いた娘子は美麗な(ころも)(ひるがえ)し、ひょろ長い男に背を向けた。  あ~愉しい♪     などという内捻の高まる気持ちを娘子はおくびにも出さず、丘をカッと駆け降りていく。  彼女の眼前には続々と集結しつつある茅野家の軍勢が、人馬をうねらせて見渡す限りの平原に覆いかぶさり、その規模を徐々に拡大させていた。      
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