野火は血を欲するか。

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 飯井槻との会話の途中に兵庫介は、自分の隣で自分らと同じ献立の飯を上体を傾げてのぞき込みつつ、箸ではなく指を使ってムシムシと、やたらクソ丁寧に鰯の身をちぎっては皿の端っこに小骨と身を左右に分けて並べている男を眺めた。  ひょんひょろの事である。  …そういやコイツが箸を使っているところを見たことないな。  ふと、兵庫介はいつも(さじ)で飯を喰う。一風変わったこの男に話を振ってみた。 「おいコラ其処(そこ)なひょろひょんよ。お主、黙っていないで話に加われ」  兵庫介の八つ当たり気味の問いかけに、当のひょんひょろは心動かされる様子も無く子鰯の身をほぐし終えた様子で、おもむろに(さじ)を手に取り(ほしいい)がふやかされて沈んだ飯茶碗を左手に構えていた。 《余りにも、御社(飯井槻)さまと兵庫介様の御機嫌がおよろしかった様子でございましたので、口を差し挟むこと心中を察して控えていたのでございます》 「…飯井槻さまは兎も角、儂の機嫌も良かっただと?」  どこをどう見たらそうなるのか?兵庫介は再度ひょんひょろに尋ねてみたくなったが止めた。  なにやらこれ以上聞くと自身の心の奥底を見透かされた話をこの場でされてしまいそうで、嫌な気分になりそうだったからだ。  しかしひょんひょろは、兵庫介がサボるのを真意はともかく許さなかった。 《御社さま。あの困り事。妙案がお有りの兵庫介様と談合なさせては如何(いかか)でござりましょう》 「そうさのう」 「いきなり何の話?」  尋ね聞けば、書物では存じていても、実際の軍事(いくさごと)にはてんで詳しくない飯井槻が、深志にちょっとしたイタズラを仕掛けるのに必要な種の一部をどうするのか、他の手管についてはとうに思いついているが、あとひとつふたつ、決め手を欠いているという話であった。 「ほう。して、飯井槻さまよ。どの様な悪さを深志にぶつけられるので?」  …さてはコイツめ、性根は幼き頃より出世してないな。  童女時分のとき、飯井槻は悪童顔負けのやたら滅多(めった)らわんぱくな娘であった。  例えば、こんな出来事があった。  飯井槻が居館としている【(あお)紫陽花館(あじさいやかた)】には、当然のことながら(かわや)がいくつもある。  もちろん。館詰(やかたづ)めの人々も(かわや・便所)を利用するのだが、身分差によって使える厠に違いがあり、一般的に使用される厠は裏手の土塀(つつべい)に隣接した弓矢の矢の棒の部分。()に利用される矢竹の小籔の中に簡素な小屋掛けであった。  そこにある日、とある元服したばかりの若い武士が、用をたそうと腰の高さまで巻藁で仕切られた(はこ・便器)に腰を下ろしたところ、外からの「えい!」という掛け声とともに天柱に隠された虫籠の底が竹紐を引っ張ることで抜け、アホ程大量のカメムシが若侍の頭上に雨のように降り注がれた。  ケラケラ笑い走り去る幼女飯井槻。  (まげ)の狭間どころか服の中までカメムシに侵入され悲鳴を上げのたうち回り、穴に溜まった(こえ)に頭から墜落し突っ込んだ若侍。  あとから聞けば、カメムシをせっせと集めたのも、それ専用の虫籠や竹紐を拵え仕掛けを考え作ったのも、これすべて飯井槻であった。  そんな懐かしくも腹立たしい昔の想い出を思い起こされた被害者の兵庫介は苦々しい表情をしたが、逆に飯井槻はニッコリ、美麗で愛らしい顔を意地悪そうにゆがめて「ふししし♪」と愉しげに笑い。  近う、近う。  ニヤニヤしながら兵庫介に上座に来るよう手招きして、愛用の大扇(おおおうぎ)を胸元から引き出して(くつろ)げて、耳を差し出せと言われるまま兵庫介は行動した。  そうして梅花香の良い匂いがする飯井槻の大扇に耳を覆われ口を寄せられ、はじめて開陳された飯井槻の策謀の全貌を披露された兵庫介は放心し、背中にびっしょりと冷や汗をかき、瞼を閉じることさえ忘却してしまった。  
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