野火は血を欲するか。

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 五月二十六日。夕刻。 「御機嫌(ごきげん)(うるわ)しゅうございます。飯、旨いですか飯井槻(いいつき)さま」 「うぐ、苦しゅうないぞ兵庫介よ♪もしゃもしゃもしゃ。うまいのぉ~。世の中の騒がしい奴原には悪いが、旨くてたまらぬ♪」  新町屋城を去り、道みちで大軍織りなす深志勢を(かわ)してすり抜け、ようやっとたどり着いた茅野屋敷は奥書院。  ガジガジガジガジ。  焦げ目強めの(いわし)の丸干しを焼いたのを(かじり)りながら、(ほしいい)の湯漬けを全力で掻っ込む飯井槻さまは、只今絶賛御夕餉の最中である。  身にかかった土埃を払い去ったとはいえ、難儀な道筋をそれなりの早足で駆けて平伏してみれば、飯井槻はこのザマである。  だがその表情は、穂井田家(ほいだけ)謀叛(むほん)(しら)せを受けたせいかどこか飯以外で愉しげであった。 「それにしても食事がなにやら質素ですな。あのうまい飯を作る料理人の御爺様はどうなされたので?」 「なにの、ずっとこの屋敷に留め置くのも詰まらんだろうとおもうての、お主とは入れ違いになった様じゃが、新町屋の城で飯を振る舞ってほしいとお願いして送り出したのじゃ。それにの、矢張りわらわにはこっちの野暮ったい食事の方が向いておるからのう。ふししし♪」  そう云って盛んに鰯とふやけた糒を盛んに咀嚼(そしゃく)して、顎をこれでもかと酷使(こくし)する飯井槻さまは、直接小皿に「んべっ!」と鰯の背骨を吐き出され、そして噛みしめた焦げ身の所為(せい)か苦い顔を()された。  それにしても、はしたないなこの御姫様は…。  服装も普段着ておられる傷んだ部分を様々な端切れで継接(つぎは)ぎしまくった、もとの生地はなんだったのかも想像しかねる着物モドキを身に纏い、食膳の脇に据えられた湯に浸かっていない素の(ほしいい)と、素焼きの皿に笹葉を敷いて積まれた焼き鰯の一群。それにハハコグサとハコベが具材とされた糠味噌汁が鍋ごと敷板の上にデン!と置かれていた。  こいつ相変わらず食い気ばかりで色気も糞もない…。  なぜ斯様に普段は自由気ままな生き物を、先々代の六郎様(茅野六郎寿建)も、先代で飯井槻さまの旦那であられた右近太夫(茅野右近太夫兼寿)様も大事になされ愛されたのか、未だにようわからぬ。  少なくとも、公の場以外の立ち居振る舞いくらいの名家の姫様らしい教育をして欲しかった。  などと、今は亡き茅野家の当主たちに切に願わずにはいられない有様が目前で繰り広げられていた。 「して飯井槻さまよ、穂井田様が蜂起され、東の三家も勝ち進んだ。これより当家はどのような手を御打ちに為されるのか存念をお聞かせ願いたい」  呆れた兵庫介は、気分を変える為に飯井槻さまにこう問うた。 「それはのう、わらわからそなたに問いたいのじゃ。なにゆえ未だ深志家の優勢は揺るがぬのに、お主は左様に浮かれておいでかの?」 「は?いや、儂は浮かれてなど……」  おりませぬ。  と云う言葉を飲み込みつつ、兵庫介は思わずキョトンとしてしまう。 「おや?兵庫介ともあろう者がわらわの言葉の意味がわからぬのか?それともわかった上で小芝居に興じておるのか?例えの、東の三家に穂井田。これに去就を明らかにしておらぬ添谷家(そいやけ)。これらが深志初戦に勝ったとしても、今の深志の軍勢には勝てはせぬと云うことをの」 「いや、それは……」  確かに儂は此の国で名にし負い、深志に対して反意を持つ家々が立ち上がろうとも、仮にそこへ茅野家が加わろうとも深志家の大勢は揺るぎこそすれ叩き潰すことなぞ出来よう筈はないとみている。  なにせ深志に抗う軍勢の位置は、北西の山間部から中央部の季の松原を伺う東の三家。  南西の険しい山道を下り、北の平地に存在する柳ヶ原を突かんとする穂井田家。  そして現在去就のはっきりしない南の盆地に割拠する添谷家。  連携もなく、合集するわけでもないこれらの軍勢の行末はあきらかで、それなりに領地から離れた場所で暴れたあと各地で各個撃破されるのがオチだ。 「のう兵庫介よ。兵も家も戦で喪っておるのは深志に与する土豪や小身外様(しょうしんとざま)の家臣どものみであって、未だに本隊の深志家の軍勢は一歩たりとも動いてはおらぬ。一兵も損なってはおらぬのじゃ。謀叛するは先方の勝手じゃが、わらわとしてはお主らこれからどうするのじゃ?と云った(ところ)での、やがて本腰をいれた深志に打ち負け滅びるは謀反人のほうであろうて」 「……左様」  さらに飯井槻は云う。  東の三家の将兵が四千にも五千に膨らもうとも、明日か明後日には出陣するであろう深志弾正もしくは孫四郎に率いられた二万もの大軍に、まるで竈に固まった灰を掬い畑に撒き散らされるが如くに容易く蹴散らされるであろう。  深志家の次期当主【深志壱岐守】が拠る本拠地。【柳ヶ原城】に勢い込んで攻め寄せている穂井田家は、実のところ深志家本来の将兵である七千余の軍勢を後詰として留め置いている深志にとっては鎧袖一触。  そんな折に添谷家がいきなり一念発起して暴れだしても後の祭り、分厚い壁に向かい炭団(たどん)を投げつけるが如く、粉微塵に粉砕されるが必然であろう。  言い返そうにも今は言い返す術のない兵庫介は、飯井槻さまの侍女に差し出された膳の、飯井槻さまと同じ献立の(わら)で焼かれた眼のないニ尾の、飯井槻の食前に上る鰯よりもさらに悲惨な丸焦げの鰯とにらめっこするしか手が無かった。  喰える身はどこに?  一体全体どうやったらこのような焼物が出来上がるのか、担当した料理人を引っ捕らえ市中引き回しながら問い詰めたいところではあったが、そう思いながら実際のところ心中で兵庫介が(おもんばか)っているのは、東の三家や穂井田家の勝利に気を良くした茅野家中の将兵どもの勢いに任せた決起をしでかさないか。であった。  東の三家や穂井田家、そして恐らくは専横著しい深志家に良い気持ちであろう筈がない添谷家よりも更に臍を噛む思いであろう我が茅野家の家中は、今でこそ飯井槻さまのもと堪えてはいるが一旦火が付けばなにをしでかすか予想もつかない。  であるからこそ、新町屋城からの帰りに寄った郭の小屋で声を絞り他に聞かれぬよう、内心不安でいっぱいだろう左膳や遣番の前で彼らを落ち着かせるためにこそ、から元気に他家の先がない勝利を祝ったのだ。    
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