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が、背後で横戸を引くガラガラという音が聞こえ、慌てて振り向くと、
「えっ、あなた、何してるの・・・」
と明らかに困惑した声で何者かが喋った。浅黄色の病院服に身を包んだ黒い長髪の女性、というよりかは女の子だ。同い年くらいで、俺を「あなた」と呼ぶ。
暫く俺たちは廊下で突っ立っていた。
廊下の奥の開け放たれた窓の向こうから寂しい波の音が、ザザザと聞こえた。頬を撫でる穏やかな風が吹き込んでくる。潮の臭いに、何故か胸が苦しくなった。
「まあ、いいわ。いいよ、入って。」
彼女が胸の奥から絞り出したような声で沈黙を破った。やはり彼女が「ふかやまぎさん」で間違いないようだ、その病室に入って行く。
俺は少しだけ迷った。
なんとなく、向こうは俺のことを知っているような感じではあるが、俺は全く彼女のことが分からないのだ。それなのにどう彼女と接すればいいのだろう。
入口でぐずっていると、
「大丈夫。あなたは黙って話を聞いてくれればいいから。お願い、来て。」
壁伝いに歩いて、ベッドに腰かけた彼女が、少しずれた位置にむかって手招きをする。
彼女は目が見えないらしい。そういえば先ほどから視界全体に靄がかかったように白く霞んで、特に彼女の顔の辺りがうまく見えない。目の悪い人が十メートル先から人の顔を見るみたいに朧気で、ぐにゃぐにゃとしていて、のっぺらぼうみたいだ。
俺は首を傾げて目をこする。
もしかしたらここは夢の中なのかもしれない。でなければ知らない人間の見舞いになど来るはずもなければピンポイントで人の顔が見えなくなるなんてこともない。それにしてはやけに明瞭な夢だが、夢だと思えばなんだか勇気が出てきた。
俺は遠慮がちに病室へ入り、彼女の前に椅子を持って来て腰をおろした。
それを音で認識したらしく「ああ、座ったのね」と彼女が呟く。
優しくて落ち着いた声音であった。
「あの・・・」
話ってなんだと聞こうとしたら、彼女は片手を翳して遮った。
「別になんでもないわ。思い出話よ。最後に伝えとこうと思って。」
なんだかよく見えないが、薄く微笑んでくれたような気がした。なので俺も、ぎこちない笑みをうかべて「はい」と頷く。
それから彼女の昔話が始まった。
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