3.神の名を呼ぶ様に

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 涙を拭って立ち上がった。深呼吸をして息を整える。  もうどうしようもないことなのだと悟った。  どうにかしたくても、どうしようもないことがあるのだと痛感した。鞄を持って、最後に別れの挨拶をし帰ろうと思ったら、 「あ、待って」 と、なんでもない調子で引き留められた。 「ねえ。手土産の代わりにそこから見える景色を教えて。口でちゃんと説明して。」 そうか、と俺は立ち止まる。こんなにきれいな田園風景が広がっていても彼女は暗闇しか見ることができないのだ。心臓を鷲掴みにされたような心苦しさとさめざめとした虚無感に襲われる。  俺は窓辺に立って外を眺めた。 「海があるんだけど、半熟卵の黄身みたいな太陽が水平線に沈もうとしてるよ。海と空の狭間で溶けて、オレンジ色の光をいっぱい反射させてる。だから空も海も黒っぽいのに橙色に染まってすごく、すごく綺麗なんだ。海は魚の銀色の鱗みたいにきらきら光って、少し波打ってる。崖の上には疎らにだけど家とか商店街があって、あ、それと一番星が見える。小さな鉄のビーズみたいだよ。」 「へえ。」 彼女は楽しそうに足をばたつかせた。国語、私よりできないのに結構上手に言えるのねと軽口を叩いて、それから、 「ねえ、月は見える?」 と尋ねてきた。 「今日の月はどう?どんな月?」 まだ見えるとは言ってなのに、と思って、俺は窓から身を乗り出して空を仰いだ。残念だが、彼女の見たいと言ってる月は見えなかった。  しかし見たいと言っているのだから悲しませるわけにはいかないので、頭の中に思い浮かべた様子をなんとか形容してみせた。  一番星の近くにまん丸の月が見える、青白い月だよ。月の周りには銀色の光が帯びていて、それが海にも映っているんだ・・・、そこまで言って、俺はなんだかどうしても悲しくって、空を見上げながら必死に涙を堪えた。目頭が痛いくらいに熱くなる。それでも何か言わねばと思って、震える声で、見えない月を、 「綺麗だ。月が綺麗なんだよ。」 本当は一緒に見たかった、月の出る日に目の見える彼女に見せてあげたかったと、実際には言えなかったが、反実仮想の意味も込めて、伝えてあげた。 「そう、」 彼女は短く返事をする。 「ありがとう」  そして泣きだした。  こどものように咽び泣いていた。俺は彼女の涙が頬を伝い、唇を流れ、顎にかけて落ちていく様子をただ見つめていた。
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